スリランカの歴史
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1686年頃の地図

この記事ではスリランカ歴史について解説する。スリランカの国旗にはライオンが描かれているが、これは最初のシンハラ王がライオンの孫であるという建国説話にちなんだものである[1]

スリランカの歴史はより広範なインド亜大陸とその周辺地域(南アジア東南アジアインド洋)の歴史と絡み合っている。

セイロン島で発見されている初期の人類遺跡は、およそ38,000年前のバランゴダ人(英語版)のものである。

スリランカの歴史時代はおおよそ3世紀頃に始まり、それはパーリ語で書かれたマハーワンサディーパワンサチューラワンサといった年代記に基づいている。こうした書物は北インドのウィジャヤ王子が来島してからの歴史を記述している[2][3][4][5]。セイロン島への入植に関する最初期の記述がこれらの年代記に見られる。これらの年代記はシンハラ人の祖先が紀元前6世紀にタンバパニ王国を成立させて以降の時代を扱っている。スリランカ最初の統治者であるアヌラーダプラ王国のパンドゥカーバヤ(英語版)は紀元前4世紀の記録に残っている。仏教は紀元前3世紀に阿羅漢マヒンダ(インドの皇帝アショーカ王の息子)によって伝来した。

その後何世紀にもわたりセイロン島は多数の王国に分裂したが、一時的に(西暦993-1077年)チョーラ朝の侵略によって統合していた。スリランカはアヌラーダプラ時代からキャンディ時代にかけて、181もの君主によって統治されていた[6][信頼性要検証]。16世紀以降、いくつかの沿岸地域はポルトガルオランダイギリスによって管理された。1597年から1658年にかけて、セイロン島のかなりの領域はポルトガルの支配下となった。八十年戦争にともなうオランダの侵入によって、ポルトガルはセイロン島の権益を失った。キャンディ戦争(英語版)を経て、1815年にセイロン島はイギリスの支配下で統一された。イギリスに対して1818年にウバ反乱、1848年にマータレー反乱という2度の武装蜂起が発生した。最終的に1948年に独立が認められたが、その後も1972年までドミニオンとして英連邦に留まった。

1972年にスリランカは共和制に移行した。1978年に施行された憲法では、大統領を国家元首とした。1983年に始まったスリランカ内戦(1971年と1987年のJVPによる武装蜂起を含む)は25年の長きにわたり、2009年に終結した。またシリマヴォ・バンダラナイケ政権下の1962年にはクーデター計画もあった。
先史時代詳細は「スリランカの先史時代(英語版)」を参照

人類が入植した証拠はバランゴダ遺跡で見つかっている。バランゴダ人は約125,000年前にセイロン島に到達し、洞窟に居住し狩猟採集社会を営む中石器文化を形成していたことがわかっている。有名なバタドンバレナ(英語版)やファヒエン洞窟(英語版)を含むこれらの洞窟では、バランゴダ人による工芸品が多数出土しており、彼らは現在わかっている最初のセイロン島定住者であると考えられている。

バランゴダ人は恐らく狩猟のために森林を焼くことで、現在ホートンプレインズ(英語版)と呼ばれる草原を作り出した。しかし、この草原において紀元前15,000年頃のオーツ麦や大麦が発見されたことで、この頃にはすでに農耕が始まっていたものと推測されており、人類最古の農業地域の可能性も示唆されていた(イスラエルに23000年前の農業地帯があったため現在では人類最古ではないがいずれにせよ古くから農耕を行っていたことは確かである)[7]

いくつかの小さな(長さ4cmほどの)花崗岩石器、土器、焼け焦げた木片、粘土製の甕棺墓などは中石器時代のものであると比定されている。ワラナラジャマハヴィハラの洞窟やカラトゥワワ地区での近年の発掘調査により、紀元前6,000年頃の人類遺構が発見されている。

シナモンはスリランカ原産であり、紀元前1,500年頃の古代エジプトで見つかっている。このことから、エジプトとセイロン島の間でこの頃には貿易が行われていたことが推察される。また、ヘブライ語聖書に現れる地名タルシシュがセイロン島に所在していた可能性も指摘されている。ジェームズ・エマーソン・テネント(英語版)はタルシシュの所在地を現在のゴールであるとしている[8]

遅くとも紀元前1,200年頃までには、既に南インドにおいて原史時代の鉄器文化が成立していたとみられる(Possehl 1990; Deraniyagala 1992:734)。スリランカでの最初期の鉄器はアヌラーダプラ、およびシーギリヤのアリガラ岩陰遺跡で発見され、放射性炭素年代測定により紀元前1,000?800年頃のものとされている(Deraniyagala 1992:709-29; Karunaratne and Adikari 1994:58; Mogren 1994:39; with the Anuradhapura dating corroborated by Coningham 1999)。さらなる調査により、鉄器文化の発生時期は南インドのそれに一致するまで遡る可能性が非常に高い[9]

原史時代(紀元前1,000?500年)の間、スリランカは文化的にインド南部と共通しており[10]、巨石墳墓や黒赤土器文化(英語版)、製鉄、耕作技術、巨石に刻まれた未解読文字などの共通点を持つ[11][12]。この文化的集合体はVelir(タミラカムの小王族)のようなドラヴィダ族とともに南部インドから広まっていき、それはプラークリット話者よりも早い時期であった[13][14][11]

スリランカにおける鉄器時代の始まりを示す考古学的証拠はアヌラーダプラで発見された。そこでは紀元前900年よりも前に大規模な都市開発が行われた。紀元前900年には都市規模は15ヘクタールに及んでいたが、紀元前700年までにはさらに50ヘクタールに拡大していた[15]。同時期における同様の遺跡はシーギリヤのアリガラでも発見されている[16]

ワンニヤレット、あるいはヴェッダと呼ばれる狩猟採集民は、現在でも中部州、ウバ州およびスリランカ北東部に居住している。彼らが恐らく最初の入植者バランゴダ人の直系子孫である。入植時期は人類がアフリカからインド亜大陸へと広がった時期に近いと考えられる。

その後、インド・アーリア人の入植者たちがシンハラと呼ばれる独自の水力文明を打ち立てた。彼らの業績には古代世界におけるため池やダムの建設に加え、ピラミッドに似たストゥーパ(シンハラ語ではダゴバ)を数多く作ったことなどが挙げられる。この段階のスリランカ文化は、初期仏教の導入期と言える[17]

仏典に記録された初期の歴史では、ブッダがナーガ族の王に会うために3度セイロン島を訪れたことに触れている(ナーガ族は伝説上の部族で、蛇にも人にもなることができるとされている)[18]

現存するセイロン島最古の記録であるヴィーパワンサとマハーワンサでは、ヤクシャ、ナーガ族、ラークシャサ、デーヴァ族がインド・アーリア人に先んじてセイロン島に住んだとされている。
先アヌラーダプラ時代(紀元前543?377年)詳細は「初期王朝時代(英語版)」を参照
インド=アーリア習合詳細は「ウィジャヤ」を参照

パーリ語の年代記であるディーパワンサ、マハーワンサ、トゥーパワンサ(英語版)、チューラワンサは、石に刻まれた他の膨大な碑文[19] や、インドの碑文記録、さらにこれら年代記のビルマ語版とともに、およそ紀元前6世紀以降のスリランカの歴史に関する情報を与えてくれる[20]


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