スライマーン_(ウマイヤ朝)
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スライマーン
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ウマイヤ朝第7代カリフ
在位
715年2月24日 - 717年9月24日

全名アブー・アイユーブ・スライマーン・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン
出生675年頃
マディーナ
死去717年9月24日
ダービク
埋葬ダービク
配偶者ウンム・アバーン・ビント・アバーン・ブン・アル=ハカム・ブン・アビー・アル=アース
 ウンム・ヤズィード・ビント・アブドゥッラー・ブン・ヤズィード
 スウダ・ビント・ヤフヤー・ブン・タルハ・ブン・ウバイドゥッラー
 アーイシャ・ビント・アスマー・ビント・アブドゥッラフマーン・ブン・アル=ハーリス・アル=マフズーミーヤ
子女.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

アイユーブ

ダーウード

ムハンマド

ヤズィード

アブドゥルワーヒド(英語版)

アル=カースィム

サイード

ウスマーン

ウバイドゥッラー

アル=ハーリス

アムル

ウマル

アブドゥッラフマーン

家名マルワーン家
王朝ウマイヤ朝
父親アブドゥルマリク
母親ワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズ・アル=アブスィーヤ
宗教イスラーム教
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スライマーン(スライマーン・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン, アラビア語: ?????? ?? ??? ????? ?? ?????‎, ラテン文字転写: Sulaym?n b. ?Abd al-Malik b. Marw?n, 675年頃 - 717年9月24日)は、第7代のウマイヤ朝カリフである(在位:715年2月24日 - 717年9月24日)。

スライマーンは父親のアブドゥルマリクと兄弟のワリード1世がカリフとして統治していた時期にパレスチナの総督として経歴を開始させ、現地で神学者のラジャア・ブン・ハイワ・アル=キンディー(英語版)による指導を受けた。また、アブドゥルマリクとワリード1世の下でイラクの総督を務め、東方地域に対する強い影響力を持っていたアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)と敵対したヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ(英語版)とも親交を深めた。パレスチナでは新都のラムラを建設したが、この新しい都市は以前のパレスチナの首府であるリュッダに代わって経済の中心地として発展し、11世紀までパレスチナの行政の中心地として存続した。

715年のワリード1世の死に伴ってカリフに即位したスライマーンは前任者の下で仕えていた多くの総督や将軍を解任した。これらの者の多くはハッジャージュの後見の下で任命された人物だった。ハッジャージュに忠実であった人物の中にはマー・ワラー・アンナフルの征服活動に従事していたクタイバ・ブン・ムスリムがいたが、ハッジャージュと対立していたスライマーンによる解任を警戒して起こした反乱は失敗に終わり、クタイバは自軍の者の手によって殺害された。また、ハッジャージュの近親者でインドシンド地方の征服を指揮していたムハンマド・ブン・アル=カースィム(英語版)も処刑された。西方ではイベリア半島アル=アンダルス)の征服者でイフリーキヤ(北アフリカ中部)の総督であったムーサー・ブン・ヌサイル(英語版)を解任し、その息子でアル=アンダルス総督のアブドゥルアズィーズ・ブン・ムーサー(英語版)を殺害させた。

スライマーンは前任者の拡大主義政策を維持したが、中央アジアの辺境における抵抗やクタイバの死後の指導力と組織力の低下もあり、領土の拡張はほぼ停止した。このような状況の中で腹心のヤズィード・ブン・アル=ムハッラブをホラーサーンへ派遣し、ヤズィードは716年にカスピ海の南部沿岸地域に侵攻したものの、現地のペルシア人支配者に敗れ、ウマイヤ朝への貢納を条件に軍を撤退させた。さらにビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルの攻略に向けて軍隊を派遣したが、717年から718年にかけて続いたコンスタンティノープルの包囲は最終的に失敗に終わった。

スライマーンはコンスタンティノープルに対する包囲が続いていた最中の717年にダービクで死去した。長男で後継者であったアイユーブに先立たれていたスライマーンは、死の間際に息子や兄弟ではなく従兄弟のウマル・ブン・アブドゥルアズィーズ(ウマル2世)を後継者に指名するという異例な選択をした。コンスタンティノープルの征服への期待とスライマーンの治世がヒジュラ(聖遷)の100周年に近づいていたことから、同時代のアラブの詩人たちはスライマーンをメシア的な視点から評している。
初期の経歴と背景ウマイヤ家と王朝の系図。青色がマルワーン1世とその子孫(マルワーン家)のカリフ、黄色がムアーウィヤ1世が属していたスフヤーン家のカリフ、緑色が正統カリフウスマーン

スライマーンは恐らく675年前後にマディーナで生まれた[1][注 1]。しかし、中世の史料における誕生から最初の30年間の経歴に関する記録は詳細に乏しい[1]。父親のアブドゥルマリク・ブン・マルワーンクライシュ族のウマイヤ家に属していた。母親のワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズはアラブ部族のアブス族(英語版)の出身で、6世紀の著名なアブス族の族長であるズハイル・ブン・ジャズィーマ(英語版)の曾孫であった[3][4]


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