スモレンスク
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スモレンスク
Смоленск

スモレンスクのクレムリン


市旗市章

位置

ロシア内のスモレンスク州の位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度47分 東経32度3分 / 北緯54.783度 東経32.050度 / 54.783; 32.050
歴史
文献登場863年
行政
ロシア
 連邦管区中央連邦管区
 行政区画 スモレンスク州
 市スモレンスク
地理
面積 
  市域166 km2
標高242 m
人口
人口(2021年現在)
  市域316,570人
  備考[1]
その他
等時帯モスクワ時間 (UTC+3)
郵便番号214000?214040
市外局番+7 4812
ナンバープレート67
公式ウェブサイト : ⇒http://www.admcity.smolensk.ru/

スモレンスク (Смоленск [sm??l?ensk] ( 音声ファイル), Smolensk) は、ロシア連邦スモレンスク州の州都。人口は31万6570人(2021年)。モスクワから西南西へ360km、ドニエプル川沿いに位置する。
概要スモレンスクを流れるドニエプル川

城郭都市であったスモレンスクはヨーロッパからロシアへの通り道に当たり、歴史上何度も攻撃に晒され破壊された。ロシア・ポーランド戦争ナポレオンのロシア戦役[2]独ソ戦などでも戦場と化している[2]。今日のスモレンスクは電子工業、繊維産業、食品産業を主とする工業都市である[2]。歴史的な建物として、生神女大聖堂16世紀に建てられたクレムリン城塞)がある。「スモレンスクのイコン」は有名。

都市の名前の由来は諸説ある。スモルニヤ川という小川に由来する説があるが、川の名前の由来はよく解っていない。黒土地帯を流れることから、黒土を意味する古いスラブ語が川の名になったと言う見方もある。都市名の由来のもう一つの説は、松脂を意味するロシア語の smola からきているというものもある。この一帯はの木が多く茂っており、かつては松や樹脂に関する産業が盛んだった。

街にはドニエプル川が流れる。周囲は東ヨーロッパ平原の中ほどに東西に伸びるスモレンスク高地となっており、その東方はモスクワ高地へと繋がり、南は中央ロシア高地に続いている。
歴史
中世のスモレンスク11世紀から12世紀のルーシ諸国。スモレンスク公国は黄色

スモレンスクはロシア最古の町のひとつである。文献で最初にスモレンスクが言及されるのは863年のことで[3]リューリクラドガに政権を築いた直後のことである。「原初年代記」によれば、スモレンスク(最初はドニエプル川のやや下流、現在のグネズドヴォ遺跡の位置にあったと考えられる)は、オレグノヴゴロドからキエフへと遠征した882年にはクリーヴィチ族の首邑であり、このときにオレグらに征服されキエフ・ルーシに組み込まれた[4]。その20年前、リューリクの部下で南方へ使わされたアスコルドジールがドニエプルを下った際にも人口が多く町も大きなスモレンスクの横を通っており、これを襲っている。

この町について最初に書物に記した外国人は東ローマ皇帝コンスタンティノス7世である。その著書『帝国統治論』(De Administrando Imperio, 950年頃)では、スモレンスクを、北欧からロシア内陸の河川を経て黒海に至る交易路「ヴァリャーギからギリシアへの道」の主要な中継地と述べている。ルーシ人はバルト海からダウガヴァ川を船で遡って行ける所まで行き、最上流部で船と荷物を川から上げ、船を引きずって丘を越える道(連水陸路)を歩き、ドニエプル川上流で船を下ろして黒海に下っていた。おそらく彼らはスモレンスクで船の修理を行った。この地で豊富に取れるタールを使って、陸で船を引きずったときにできた穴や隙間を埋めて修理したため、「タール」を意味するスモレンスクの地名が生じたと考えられる。スモレンスクの街並(1912年撮影)

キエフ大公ヤロスラフ1世没後の1054年スモレンスク公国が成立した。ロシアの中央にあるという地理的条件から、スモレンスクの町は急成長を遂げた。12世紀末には東ヨーロッパ有数の強国となり、ヤロスラフ1世の子孫であるスモレンスク公は度々キエフ大公の地位に就いた。この時期多くの教会が建設された。例えば聖ピョートル・聖パーヴェル聖堂(1146年、第二次世界大戦後に建設当時の姿を想定して再建)、前駆授洗イオアン聖堂(1180年、部分的に再建され現在に至る)などがある。特筆すべき聖堂はスヴィルスカヤ聖堂で、1197年に完成し現存している。建立当時の人々にはキエフ以東で最も美しい建築として崇敬されていた。
ロシア、ポーランド、リトアニアの間で生神女就寝大聖堂 (スモレンスク)、1912年セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影。「オディギトリアの生神女」(スモレンスクの生神女)と呼ばれるイコンが納められた部分だが、イコンはこの後の独ソ戦での火災で失われた

1125年にはロスチスラフ1世が公となり、以後15世紀までその子孫であるロスタスラヴィチ王朝が続いた。1136年からはスモレンスク主教が置かれるようになり、1229年にはハンザ同盟とも協定を結んだ。

スモレンスクは、1240年モンゴル帝国襲来では破壊されず助かったものの、以後ジョチ・ウルスへの貢納を強いられる。勢力を増す西方のリトアニア大公国の影響下でジョチ・ウルスのくびきからは解き放たれたが、ロシア諸国の中で頭一つ抜けた勢力を持つようになったモスクワ大公国とリトアニア大公国との間の争いに巻き込まれる。ロスタスラヴィチ朝最後の公であるユーリ・スヴャトスラヴィチの悲惨な治世には、ヴィータウタス大公率いるリトアニア軍に三度街を陥落させられ(1395年1404年1408年)ついにリトアニアに編入された[2]


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