この項目では、ロシア帝国の行政区について説明しています。ポーランド・リトアニア共和国の行政区については「スモレンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)」を、現ロシアの行政区については「スモレンスク州」をご覧ください。
ロシア帝国におけるスモレンスク県の位置(1914年)県章
スモレンスク県(ロシア語: Смоленская губерния)は帝政ロシアの県(グベールニヤ)である。行政中心地はスモレンスクであり、1929年まで存在した。
歴史
帝政ロシア期ピョートル1世による8県。地図左の青がスモレンスク県(1708年)スモレンスク県と各郡(1835年)
スモンレンスク県は1708年に設置された[1]。スモンレンスク県は、ピョートル1世による帝政ロシア最初の県制(グベールニヤ制)制定時の8県のうちの1つである。県内にはスモレンスク、ロスラヴリ、ドロゴブージ、ヴャジマ、ベルィー、ポゴレノエ・ゴロディシチエ(ru)
、ズブツォフ、スターリツァ、セルペイスク、コゼリスク、メシチョフスク、モサリスク、チェカリン、ボリソヴォ・ゴロディシチエ(ru)、ペレムィシュリ、ヴォロトィンスク、オドエフの17市(ゴロド)と8郡(ウエズド)が存在した[1][2]。1726年にはスモレンスク郡(ru)、ロスラヴリ郡(ru)、ドロゴブージ郡(ru)、ヴャジマ郡(ru)、ベルィー郡(ru)の5郡に整理された。
1775年、ナメストニチェストヴォ制が導入され、スモレンスク・ナメストニチェストヴォ(ru)となった。この際に、グジャトスク郡(ru)、エリニャ郡(ru)、カスプリャ郡(後にドゥホフシチナ郡(ru)に改編)、クラスヌィー郡(ru)、ポレチエ郡(ru)、ルポソヴォ郡(後にユフノフ郡(ru)に改編)、スィチョフカ郡(ru)の7郡が設置された。1796年に再びスモレンスク・グベールニヤ / 県 となった。一時的な郡の統廃合と再置を経つつも、1802年以降、帝政ロシア末期の1918年まで12郡(1726年設置の5郡 + 1775年設置の7郡)で固定された。なお、1812年の祖国戦争(ナポレオン1世のロシア遠征)によりスモレンスク県は甚大な被害を被っている[3][注 1]。
スモレンスク県の下位区分(1802年 - 1918年)郡行政中心地面積(露里2)郷全域人口(人)
1859年[4]郷全域人口(人)
1897年[5]行政中心地人口(人)
1897年[5]
県全体スモレンスク49212.2152,527912,0895
ベルィー郡(ru)ベルィー9674.810,660516,51596952
ヴャジマ郡(ru)ヴャジマ2722.77,847110,55021,5645
グジャトスク郡(ru)グジャトスク3447.911,53669,82666324
ドロゴブージ郡(ru)ドロゴブージ3357.57,439010,47306486
ドゥホフシチナ郡(ru)ドゥホフシチナ3709.27,944112,42863109
エリニャ郡(ru)エリニャ4319.010,404413,78642441
クラスヌィー郡(ru)クラスヌィー(ru)2403.86,457610,22572753
ポレチエ郡(ru)ポレチエ5096.87,554213,19365688
ロスラヴリ郡(ru)ロスラヴリ5503.610,528618,82441,7776
スモレンスク郡(ru)スモレンスク2824.28,424214,51554,6699
スィチョフカ郡(ru)スィチョフカ2558.99,430310,07374773
ユフノフ郡(ru)ユフノフ3593.810,091512,11432249
[註]
・面積は平方ベルスタ(露里)。1ベルスタ = 約1067メートル[6]。
・グジャトスク:現ガガーリン、ポレチエ:現デミドフ。
民族比率(1897年[5])郡ロシア人ベラルーシ人ユダヤ人ポーランド人