スモレンスク県_(ロシア帝国)
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、ロシア帝国の行政区について説明しています。ポーランド・リトアニア共和国の行政区については「スモレンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)」を、現ロシアの行政区については「スモレンスク州」をご覧ください。
ロシア帝国におけるスモレンスク県の位置(1914年)県章

スモレンスク県(ロシア語: Смоленская губерния)は帝政ロシアの県(グベールニヤ)である。行政中心地はスモレンスクであり、1929年まで存在した。
歴史
帝政ロシア期ピョートル1世による8県。地図左の青がスモレンスク県(1708年)スモレンスク県と各郡(1835年)

スモンレンスク県は1708年に設置された[1]。スモンレンスク県は、ピョートル1世による帝政ロシア最初の県制(グベールニヤ制)制定時の8県のうちの1つである。県内にはスモレンスクロスラヴリドロゴブージヴャジマベルィー、ポゴレノエ・ゴロディシチエ(ru)、ズブツォフスターリツァセルペイスクコゼリスクメシチョフスクモサリスクチェカリン、ボリソヴォ・ゴロディシチエ(ru)、ペレムィシュリヴォロトィンスクオドエフの17市(ゴロド)と8郡(ウエズド)が存在した[1][2]

1726年にはスモレンスク郡(ru)、ロスラヴリ郡(ru)、ドロゴブージ郡(ru)、ヴャジマ郡(ru)、ベルィー郡(ru)の5郡に整理された。

1775年、ナメストニチェストヴォ制が導入され、スモレンスク・ナメストニチェストヴォ(ru)となった。この際に、グジャトスク郡(ru)、エリニャ郡(ru)、カスプリャ郡(後にドゥホフシチナ郡(ru)に改編)、クラスヌィー郡(ru)、ポレチエ郡(ru)、ルポソヴォ郡(後にユフノフ郡(ru)に改編)、スィチョフカ郡(ru)の7郡が設置された。1796年に再びスモレンスク・グベールニヤ / 県 となった。一時的な郡の統廃合と再置を経つつも、1802年以降、帝政ロシア末期の1918年まで12郡(1726年設置の5郡 + 1775年設置の7郡)で固定された。なお、1812年の祖国戦争ナポレオン1世のロシア遠征)によりスモレンスク県は甚大な被害を被っている[3][注 1]

スモレンスク県の下位区分(1802年 - 1918年)郡行政中心地面積(露里2)郷全域人口(人)
1859年[4]郷全域人口(人)
1897年[5]行政中心地人口(人)
1897年[5]
県全体スモレンスク49212.2152,527912,0895
ベルィー郡(ru)ベルィー9674.810,660516,51596952
ヴャジマ郡(ru)ヴャジマ2722.77,847110,55021,5645
グジャトスク郡(ru)グジャトスク3447.911,53669,82666324
ドロゴブージ郡(ru)ドロゴブージ3357.57,439010,47306486
ドゥホフシチナ郡(ru)ドゥホフシチナ3709.27,944112,42863109
エリニャ郡(ru)エリニャ4319.010,404413,78642441
クラスヌィー郡(ru)クラスヌィー(ru)2403.86,457610,22572753
ポレチエ郡(ru)ポレチエ5096.87,554213,19365688
ロスラヴリ郡(ru)ロスラヴリ5503.610,528618,82441,7776
スモレンスク郡(ru)スモレンスク2824.28,424214,51554,6699
スィチョフカ郡(ru)スィチョフカ2558.99,430310,07374773
ユフノフ郡(ru)ユフノフ3593.810,091512,11432249
[註]
・面積は平方ベルスタ(露里)。1ベルスタ = 約1067メートル[6]
・グジャトスク:現ガガーリン、ポレチエ:現デミドフ。

 民族比率(1897年[5])郡ロシア人ベラルーシ人ユダヤ人ポーランド人


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:15 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef