スモレンスク戦争
スモレンスク県(赤色で示された地域)
時1632年秋 ? 1634年春
場所スモレンスク県、リトアニア大公国
結果ポーランド・リトアニア共和国の勝利(現状維持、ポラノヴォ条約
スモレンスク戦争(ポーランド語: Wojna smole?ska;ロシア語: Смоленская война;、1632年 - 1634年)は、ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国の間で戦われた戦争。
交戦は1632年10月、ポーランド・リトアニア共和国にスモレンスクを奪われたロシアが奪還しようとした事が原因だった。小規模な軍事衝突により両国は混戦状態に陥ったが、1634年2月のポリャノフカ条約の締結に従ってロシア軍の主要部隊は降伏した。ロシアはさらに20年間、ポーランド・リトアニアによるスモレンスク支配を認めていなければならなくなった。 1632年、ポーランド・リトアニア共和国の国王ジグムント3世ヴァザが死んだ。連合共和国の貴族階級(シュラフタ)はすぐにジグムントの長男ヴワディスワフ4世ヴァザを新国王に選出したが、近隣諸国は共和国の弱体化の程度を調べるためにも、国王自由選挙の選出過程が長期化することを期待していた。スウェーデン王グスタフ2世アドルフは、モスクワ・ロシアとオスマン帝国に使節を派遣し、共和国を仮想敵国とする軍事同盟の結成を打診した。 共和国は戦争の準備が出来ていなかった。国王常備軍
背景
ロシアは大動乱における荒廃からある程度回復しており、共和国は選挙王が死ぬと一時的に弱体化するだろうと予想していて、オスマン帝国やスウェーデンの出方を見ることなく単独出兵した。ロシアの狙いは、1618年にロシア・ポーランド戦争の休戦条約であるデウリノ条約によって、共和国へ割譲していたスモレンスクの支配権を回復することだった。当時スモレンスクはスモレンスク県の県庁所在地になっていたが、ロシアとポーランド・リトアニアにとっては長年の係争地帯であり、15世紀から17世紀まで何度も奪い合いが続いていた(モスクワ・リトアニア戦争)。この戦争の主唱者はツァーリの実父フィラレート総主教であり、総主教は宮廷内の反ポーランド派閥の指導者だった。ゼムスキー・ソボル(ロシア議会)は対ポーランド復讐と失地回復を鼓舞し、これを受けてロシア軍は西へと進軍した。
交戦1634年のスモレンスクにおける、ヴワディスワフ4世のロシアに対する勝利を顕彰するメダル
ロシア軍は1632年10月初旬にリトアニア国境を突破した。同軍の準備は万全で、司令官には1609年から1611年のスモレンスク包囲でポーランド人から同市を防衛したミハイル・シェインが任じられていた。ロシア軍はいくつかの町と城を陥落させ、歴史的都市ドロゴブージを占領した1632年10月28日、シェインはスモレンスク包囲に取りかかった。
ロシア軍の規模は2万5000から3万、3万4500などと見積もられており、160の大砲を持ち込んでいた。以前と比べると、ロシア軍はかなり近代化されていた。マスケット銃を装備した歩兵隊(ストレリツィ)という伝統的な軍隊組織に飽き足らず、ロシア人達は装備を最新式にし、西ヨーロッパ・モデルの常備軍、竜騎兵、黒騎兵などに編成した軍隊を率いる外国人の指揮官に期待していた。シェインの軍隊には西欧化された1万4000から1万7000人の兵で構成される、8つの連隊が含まれていた。
スモレンスク包囲詳細は「スモレンスク包囲 (1632-1633)」を参照
一方、スモレンスクにおけるポーランド・リトアニア共和国の軍隊は、スモレンスク県知事アレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキの率いるスモレンスク守備隊(1600人、大砲170)であり、総動員令によって召集された地元貴族からなる1500人の強兵によって援護されていた。都市の要塞はイタリア式の堡塁に改良されたばかりだった。
シェインは城砦を包囲して都市の出入りを遮断した。トンネルと坑道を利用して、ロシア軍は市壁と市壁に備え付けられた塔の一つの連絡を切断した。大半が西ヨーロッパ製であるロシアの大型大砲は、1632年12月にスモレンスクに到着し、翌年3月に銃が届いた。予備の大砲による攻撃のあと、シェインは直接攻撃を命じたが、ポーランドの守備兵に撃退された。ところが包囲は続いて、スモレンスク要塞は破壊が進み、守備隊側は大量の死傷者と補給物資の不足に苦しんだ。1633年6月までに、一部の兵士は脱走を始め、残った兵士達も降伏について論じるようになった。
しかし、副知事サムエル・ドルツキ=ソコリンスキの指揮下にある町は1633年を通じて持ちこたえ、一方で共和国では新王ヴワディスワフ4世が救援のための軍勢を組織していた。セイムは1632年10月30日にロシア軍侵入の報を聞き、11月には救出の見込みについて議論を始めた。結論を出すのは1633年の春まで遅れたが、セイムは公式に宣戦布告と軍隊を編成するのに必要な戦費の拠出(65万ズウォティで、これはヴワディスワフ4世の治世において最も高額な戦費であった)を認可した。編成された援軍はおよそ2万1500人の大軍であり、有翼驃騎兵24旗(ホロンギェフ、騎馬3200頭)、コサック騎兵と呼ばれる軽騎兵27旗(騎馬3600頭、コサックで構成されているわけではない)、黒騎兵10中隊(騎馬1700頭)、リトアニア連隊7隊(騎馬780頭)、竜騎兵7大隊(騎馬2250頭)、歩兵隊20隊(1万2000人)で構成されていた。1万人を超える歩兵隊は、それまでの共和国では滅多に見られなかった、西欧式に組織された新型軍隊だった。ミハイル・シェインの降伏
一方、リトアニア野戦ヘトマンのクシシュトフ・ラジヴィウとスモレンスク県知事のゴシェフスキは、オルシャからバユフ、クラシネと移動してスモレンスクから30キロの地点に野営地をおいた。彼らは1633年2月までに2000人の歩兵を含む4500人の兵士をかき集め、ロシア軍の包囲戦術を背後から叩くことにした。ヘトマンのラジヴィウ公は何度かロシア軍の戦列を突破し、兵士1000人と補給物資を送り込んで要塞を強化し、要塞内の士気回復に成功した。
1633年の夏までに、国王自身に率いられた2万5000にのぼるポーランド・リトアニア共和国の解放軍(歴史家パヴェウ・ヤシェニツァによると2万)はスモレンスク郊外に至り、1633年8月17日にはオルシャに到着した。1万4000の解放軍の主力部隊は9月初旬にスモレンスクへの進軍を始めた。一方、補充されたロシア軍は総力2万5000となった。1万人から2万人を数えたというティモフィイ・オレンダイコ率いるコサックの援軍は9月17日に到着し、共和国軍は数の上で優勢に立った。オレンダイコとマルチン・カザノフスキに率いられたコサック軍はロシア軍の戦列を突破し、ラジヴィウとゴシェフスキ麾下の共和国軍による包囲を崩すための攻撃に加勢した。
ヴワディスワフ4世の弟ヤン・カジミェシュが連隊の一つを指揮しており、また王冠領野戦ヘトマンのマルチン・カザノフスキも参加していた。共和国軍の近代化の立役者だったヴワディスワフ4世は、有能な戦略家としての才能を示し、彼の発案だった大砲の導入と要塞の西欧化は共和国軍に戦勝をもたらすことになった。国王は火縄銃をマスケット銃に変え、これを共和国軍に浸透させたことも、有効に作用した。
有翼驃騎兵を含む共和国の騎兵軍は、ロシア軍を追い詰めて塹壕から出られないようにした。烈しい戦闘の中で、共和国軍はだんだんとロシア軍の陣地を荒廃させ、包囲は9月下旬には最終段階を迎えた。