スモレンスクの戦い_(1812年)
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スモレンスクの戦い
Battle of Smolensk (1812)
Bataille de Smolensk (1812)
Смоленское сражение (1812)
ナポレオン戦争ロシア戦役

『1812年8月18日のスモレンスクの戦い(Battle of Smolensk on 18 August 1812)』、アルブレヒト・アダムによる絵画

1812年8月16日 - 8月18日
場所 ロシア帝国スモレンスク
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度46分 東経32度02分 / 北緯54.767度 東経32.033度 / 54.767; 32.033
結果フランス軍の勝利

衝突した勢力
フランス帝国
ワルシャワ公国 ロシア帝国
指揮官
ナポレオン1世
ミカエウ・グラボウスキ(en:Micha? Grabowski)  ミハイル・バルクライ・ド・トーリ
ピョートル・バグラチオン
戦力
45000(180000人中)[1]30000(120000人中)[1]
被害者数
10000人が死傷ないしは捕縛[1][2]6000?14000人が死傷ないしは捕縛[1][2]
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} ヨーロッパにおける位置

スモレンスクの戦い(英語:Battle of Smolensk、フランス語:Bataille de Smolensk、ロシア語:Смоленское сражение)は、1812年8月16日から8月18日に起こった戦いで、1812年フランス帝国が敢行したロシア侵略の初期における大規模なものである。この戦いには、ナポレオン1世皇帝率いる大陸軍の約45,000人が、ミハイル・バルクライ・ド・トーリ将軍率いる約30,000人のロシア軍と戦った[1][3]。ナポレオンは、ピョートル・バグラチオン王子率いる第2軍を追い払ってスモレンスクを占領し、またフランスの砲撃により、スモレンスクは全焼した。2,250棟の建物のうち84%が破壊され、無傷で残ったのは350棟のみであった。市中の15,000人の住民のうち、約1,000人が煙が立ち込める廃墟の中に残されることとなり、15,000人以上の犠牲者を出したこの戦いは、一連の戦役の中でも最も血なまぐさい戦いの1つであった[4]
背景「1812年ロシア戦役」も参照
ヴィーツェプスク作戦

ミハイル・バルクライ・ド・トーリ将軍率いるロシア第1西部軍(First Western Army)は、1812年7月26日よりナポレオン1世との戦い(ヴィーツェプスクの戦い(英語版))に臨んだ[5]ものの決着がつかず、翌7月27日に同地より抜け出して、総力戦を避けることした。ナポレオンはロシア軍を戦いへ引きずり出せなかったことに不満を募らせながらも、大陸軍を改編し、落伍兵が追いついてくるのを待つために8月12日までヴィーツェプスクに留まった。ジャン=アンドシュ・ジュノー将軍は傀儡国家ヴェストファーレン王国の王だったジェローム・ボナパルトに代わって大陸軍第8軍団(VIII Corps)の司令官となり、軍団は8月4日ヴォルシャ近くでナポレオン本隊に合流した[6][7]。一方ロシア軍では8月3日スモレンスクピョートル・バグラチオンのロシア第2軍とバルクライの本隊たる第1軍が合流した後、軍事作戦の舞台は小康状態になった。
フランス情勢

一連の作戦は断続的に5週間続き、フランス軍の主要な375000人の攻撃部隊は、諸因によって185000人にまで減少していた[7]ニコラ・ウディノ元帥とローラン・グーヴィオン=サン=シール将軍、ジャン・レニエ(英語版)将軍、ヴィクトル・ド・フェイ・ド・ラ・トゥール=モブール(Victor de Fay de La Tour-Maubourg)将軍のもと9万人の部隊が様々な任務のために分離したためである。ロシア軍はナポレオンの本隊に何千もの損失を与えたが、兵力削減の主な原因は戦略的消費であり、駐屯都市、要塞、前線の補給基地を守備する必要があったのである[8]

拙速な行軍を強いたことと補給用のワゴン付馬車隊の不調により、脱走が多発し、飢餓と病気、特に赤痢で数万人が犠牲になった。7月の灼熱の暑さは、水の貯えを減少させたうえ、放牧地がなく、馬車が十分な飼料を運べないため、大量の騎兵馬、輸送馬、去勢牛が死んだ[9]
ロシア軍の計画ピョートル・バグラチオン、この時進軍するナポレオン軍に対する攻撃を行うよう働きかけた。

ロシア上層部は、フランス軍の進攻により広大なロシア領を失ったことで危機的状況に陥り、同部では政権交代がなされることとなった。バグラチオンを中心とする攻撃的な「ロシア人」派は、ナポレオンに対し即時の全面攻撃を開始するよう要求した。この要求は、アレクサンドル1世[注釈 1]と将校団の大部分によって支持された。バルクライ・ド・トーリを中心とする「外国人」派は、ドイツ系将校を中心に構成され、仏軍の攻撃を弱めるべく、遅延と撤退を行う現状の政策の継続をすることを主張した。


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