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スポーツニッポン
SPORTS NIPPON NEWSPAPER
種類日刊紙
サイズブランケット判
事業者株式会社毎日新聞グループホールディングス
(株式会社スポーツニッポン新聞大阪本社→)
(株式会社スポーツニッポン新聞東京本社→)
(株式会社スポーツニッポン新聞西部本社→)
株式会社スポーツニッポン新聞社
本社【東京本社】
(東京都千代田区有楽町1-2→)
(東京都千代田区竹平町1→)
(東京都千代田区一ツ橋1-1-1→)
(東京都港区芝1-7-17→)
東京都江東区越中島2-1-30
【大阪本社】
(大阪府大阪市大淀区大淀南3-2-25→)
大阪府大阪市北区梅田3-4-5
代表者小菅洋人(代表取締役社長)
創刊1949年(昭和24年)2月1日(大阪)
1950年(昭和25年)3月6日(東京)
1955年(昭和30年)5月1日(西部)
前身日本投書新聞
(1946年4月10日 - 1949年9月30日)
夕刊東京日日新聞
(1948年12月4日 - 1955年8月31日)
新関西
(1949年10月1日 - 1979年11月1日)
言語日本語
発行数1,691,715部(2022年1月現在の1日あたり公称部数)[1]
ウェブサイトhttps://www.sponichi.co.jp/
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スポーツニッポンのホーロー看板
スポーツニッポンは、株式会社スポーツニッポン新聞社が発行するスポーツ新聞。通称:スポニチ。
発行元であるスポーツニッポン新聞社は毎日新聞グループホールディングス(以下、毎日新聞グループ)の主要企業であり、グループの中核事業でもある。なお、本項目ではそのスポーツニッポン新聞社についても述べる。 創刊当初は、「スポーツ紙唯一の全国紙」をスローガンにスポーツ・芸能情報を積極的に提供してきた。現在では定番となった1面記事見出しのカラー化(赤見出し)や、即売版(駅売店など)の専用紙面である風俗記事の連載、最終面をニュース記事のページにする「ダブル1面」を初めて採用した。1980年代の終わりから総合大衆紙として、社会事件・政治報道などにも力を入れた。 1995年(平成7年)には、オウム真理教による一連の事件報道などで、東京本社管内でスポーツ紙としては初めて実売100万部超を達成。この年4月から3か月間維持した。 2004年(平成16年)には、東京、大阪、西部本社が合併し全国を一社でカバーする単一法人となった。東京を存続会社とし、2007年(平成19年)4月から旧3社の人事・賃金など諸制度統一に向けた新制度がスタート。合併を機にスケールメリットを追求しすべての取引制度を見直し、2005年(平成17年)度決算は減収ながら史上最高益を記録した。売上げにおける3本社の比率は東京6、大阪3、西部1の割合となっている。これに併せ、題字ロゴを全国で統一[注 1]。2008年(平成20年)元日からの大阪本社管内を皮切りに、1面題字に商品バーコードが掲載されるようになった。 発行所は東京本社、大阪本社及び西部総局。札幌では東京本社名義、名古屋と広島では大阪本社名義でそれぞれ発行、一部を地域独自版に差し替える、名古屋ではセンバツ高校野球開催期間中に地元の高校を1面、または常滑と蒲郡のボートレースの優勝戦を1面など。 2010年(平成22年)7月、九州地区は西部本社を福岡に統合移転後、会社全体の組織見直しで、西部本社は廃止。東京本社傘下の管理下による「福岡総局」を復活させる形(格下げ)となった。新聞の発行は継続している。さらに名称を「西部総局」に改め、発行元については単に「西部」とだけ記されるようになった。沖縄では琉球新報社に委託(実質「地域フランチャイズ契約」)し、1990年(平成2年) 7月から「新報スポニチ」を発行している。 メディア環境の激変により新聞界全体で紙媒体の部数減が経営を苦しめる中、2011年(平成23年)2月1日、親会社毎日新聞社と経営統合することで合意した。4月1日付で両者の株式を移転して設立される共同持株会社の完全子会社となるもので、同日関東財務局に報告書を提出した。競合のスポーツ報知と異なるのは、報知新聞社が読売新聞グループとは経営で一体化していないのに対し、スポニチの場合親会社と完全に経営を一体化するという点である。そして2011年(平成23年)4月1日、毎日新聞社とスポーツニッポン新聞社の株式移転によって設立された共同持株会社毎日・スポニチ持株移行株式会社(現在の株式会社毎日新聞グループホールディングス)の完全子会社となった[2]。
概要
沿革
1946年(昭和21年) - 前身紙の『日本投書新聞』が大阪で創刊。
1948年(昭和23年)12月4日 - 前身紙『夕刊東京日日新聞』が東京で創刊。
1949年(昭和24年)
2月1日 - 本紙が大阪で創刊(タブロイド版)。アムステルダム・ロサンゼルス両オリンピックマラソン日本代表津田晴一郎が初代社長に就任。
10月 - 日本投書新聞が毎日新聞社に買収され、『新関西』と改題。
1950年(昭和25年) 3月6日 - 東京都千代田区有楽町にあった毎日新聞東京本社内に東京支社設置、東京において発刊。
1955年(昭和30年)
5月1日 - 福岡県門司市(現・北九州市門司区)清滝の毎日新聞西部本社内に西部支社設置、九州において発刊。
9月1日 - 前日付けで休刊した東京日日新聞(2代)を東京本社版に事実上統合。
1957年(昭和32年) 2月 - 日本プロ野球キャンプの全会場に取材班を配置、シーズン前の調整をきめ細かく伝える。
1959年(昭和34年) 6月1日 - 北海道札幌市で東京支社版の現地印刷開始。
1960年(昭和35年)
8月10日 - 東京支社を分社。「株式会社スポーツニッポン新聞東京本社」設立。これに伴い時期は不明だが大阪本社の社名を「株式会社スポーツニッポン新聞大阪本社」に変更。
10月15日 - スポーツ新聞として初めて1面に赤色の見出しを採用。
1961年(昭和36年) 8月29日 - 西部支社を分社。「株式会社スポーツニッポン新聞西部本社」設立。これにより3本社体制を整える。
1965年(昭和40年)- 北九州市小倉区(現・小倉北区)紺屋町に毎日西部会館が完成、毎日新聞西部本社が移転。従来毎日西部が使っていた建物を西部本社専用の社屋として使用する。
1966年(昭和41年) 9月26日 - 毎日新聞東京本社が有楽町から同じ千代田区内に建てたパレスサイドビルディングに移ったことに伴い、東京本社も一緒に移転。ただし、編集部門のみ当時港区芝1丁目にあった東日印刷(旧・東京日日新聞印刷工場)本社工場内に移転。
1971年(昭和46年) 9月13日 - 東京本社、番組表を掲載するページに、鉄道駅売店などの即売版専用紙面「スポニチ環状線」の連載を開始(いわゆる二毛作)。他のスポーツ紙も追随。
1979年(昭和54年)11月1日 - 日刊新関西を統合し、大阪本社版の早版『スポニチ前夜速報版』にリニューアル。
1983年(昭和58年) 10月11日 - 東京本社、最終面をスポーツニュース記事にしたダブル1面を開始。これにより従来最終面にあったテレビ番組表(宅配版)や「スポニチ環状線」(即売版)は中面に移動。他のスポーツ紙も追随。
1986年(昭和61年) 1月 - 東京本社、1面のカラー印刷開始、その後カラーページを拡大。他のスポーツ紙も追随。
1988年(昭和63年) 8月 - 東京本社、竹橋と芝金杉橋の2か所に分かれていた拠点を江東区越中島のSTビルに全面統合移転。
1989年(平成元年) 10月 - 福島支局開設
12月 - 西部本社、門司社屋の老朽化に伴い、毎日西部会館に移転。
1990年(平成2年) 7月 - 株式会社琉球新報社、韓国朝鮮日報[注 2]系のスポーツ紙・スポーツ朝鮮との提携関係が成立。1日から琉球新報社が沖縄県向けに「新報スポニチ」を発刊。
1992年(平成4年) 2月 - 長野支局開設
1993年(平成5年) 2月 - 大阪本社、北区西梅田(大阪駅前)の毎日新聞大阪本社に移転。それまでの北区(旧・大淀区)の旧社屋についてはその後スポニチとの等価交換によりマンションとして再整備された。
1995年(平成7年)
1月17日 - 阪神・淡路大震災発生。これを受け後に3本社連携により義援金募集を実施、4204万円余の義援金が集まった。
4月 - スポーツ紙初の発行部数1日平均100万部を達成(日本ABC協会調べ)。
2001年(平成13年) 10月 - 国会記者会にスポーツ紙で初めて加入。
2004年(平成16年)
10月1日 - 東京本社を存続会社として3本社が合併、商号を株式会社スポーツニッポン新聞社に変更。
11月8日 - 創刊20,000号(新聞休刊日発行の特報版を除く)[3]。
2008年(平成20年) 1月1日 - 創刊60年を記念し、年間イメージモデルとして、前年度上半期のNHK連続テレビ小説『どんど晴れ』でヒロインを演じた比嘉愛未を起用。この日付け紙面で特集記事が紹介され、キャンペーンキャッチフレーズ「そのへんはスポニチが詳しい」が採用された。
2009年(平成21年)
2月1日 - 創刊60周年。イメージキャラクター兼特別編集局長によしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のお笑いタレント・今田耕司を起用、キャンペーンキャッチフレーズ「ハッとしてホッとするスポニチ」「読むなら、いまだ!」を採用。
6月12日 - 今田からの繋がりでよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属の漫才師、石田明(NON STYLE)を期間限定の特別編集委員に任命。
7月1日 - 西部本社を毎日西部会館から福岡総局(福岡市中央区天神1丁目の毎日福岡会館)に統合移転。西部版の発行所が旧福岡総局となる。販売部は毎日西部会館に残した上で、毎日西部本社と事実上統合。[注 3]
10月1日 - 当初から東京本社管轄だった北海道支社を総局に格下げ。
11月29日 - 大阪本社発行の“夕刊”(即売のみ)の発行を休止。
2010年(平成22年)
5月1日 - 大阪本社、大阪・ミナミの鰻谷スクエア[注 4](中央区東心斎橋)に読者との交流を図る事実上の第2大阪本社「スポニチプラザ大阪」を開設。
7月 - 組織再編を実施し、本社を東京・大阪の二元体制とする。西部本社は機能を維持しつつ格下げされ、紙面構成の都合で東京本社管轄となり「福岡総局」復活。ただし発行機能は維持。
10月1日 - 福岡総局を「西部総局」に改称。