スペンサー・コンプトン_(初代ウィルミントン伯)
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グレートブリテン王国政治家初代ウィルミントン伯爵
スペンサー・コンプトンSpencer Compton
1st Earl of Wilmington
初代ウィルミントン伯爵(ゴドフリー・ネラー画、1710年頃)
生年月日1674年
没年月日1743年7月2日
出身校オックスフォード大学トリニティ・カレッジミドル・テンプル
所属政党ホイッグ党
称号初代ウィルミントン伯爵ガーター勲章ナイト(KG)、バス勲章ナイト(KB)、枢密顧問官(PC)
サイン
首相
在任期間1742年2月16日 - 1743年7月2日
国王ジョージ2世
枢密院議長
内閣ウォルポール内閣
在任期間1730年12月31日 - 1742年2月13日
庶民院議長
在任期間1715年3月17日 - 1727年7月
庶民院議員
選挙区アイ選挙区(英語版)
イースト・グリンステッド選挙区(英語版)
サセックス選挙区(英語版)
イースト・グリンステッド選挙区
在任期間1698年 - 1710年
1713年 - 1715年
1715年 - 1728年
1722年 - 1722年
貴族院議員
在任期間1728年1月8日 - 1743年7月2日
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初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン(英語: Spencer Compton, 1st Earl of Wilmington KG PC1674年 - 1743年7月2日)は、イギリスの政治家、貴族。

ノーサンプトン伯爵家の第3子(ヤンガーサン)として生まれた。1698年ホイッグ党庶民院議員に初当選して政界入りした[1]ロバート・ウォルポール内閣で閣僚職[2]庶民院議長を務めた後、1742年のウォルポール退陣に際して後任の第一大蔵卿首相)となったが、これは名目上のことであり、第2代カートレット男爵ジョン・カートレットウィリアム・パルトニーらが実権を握っていた[1]。翌1743年に首相在職のまま死去した[3]

1728年にウィルミントン男爵(英語版)、1730年にウィルミントン伯爵に叙せられた[4]
経歴
生い立ち

1674年頃、第3代ノーサンプトン伯爵ジェイムズ・コンプトンの第3子として、コンプトン・ウィンエッツ(英語版)で生まれる[1][3]。母は第3代キャンプデン子爵バプティスト・ノエル(英語版)の娘メアリー(1719年没[2][1]名誉革命の招聘者の1人でロンドン主教のヘンリー・コンプトンは叔父に当たる[5]

セント・ポールズ・スクールを経て1687年にミドル・テンプルに入学[6]、1690年2月28日にはオックスフォード大学トリニティ・カレッジに進学した[7]
庶民院議員として

1695年イングランド総選挙(英語版)でイースト・グリンステッド選挙区(英語版)から出馬して敗れた後[6]、1698年6月にアイ選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員となる[1]。彼の家は代々トーリー党であったが、彼自身は兄ジョージ(第4代ノーサンプトン伯爵)との個人的確執もあってホイッグ党に転じ[1]、1698年に作成された議員リストではコート派(宮廷派)とされ、1701年にロバート・ハーレーが作成した議員リストではホイッグ党とされた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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