スペル・デルフィン
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スペル・デルフィン

プロフィール
リングネームスペル・デルフィン
モモタロウ
モンキーマジック・ワキタ
本名脇田 洋人
ニックネーム関西の英雄
セニョール・ペルフェクト
身長170cm
体重86kg
誕生日 (1967-09-22) 1967年9月22日(56歳)
出身地大阪府和泉市
所属海鮮プロレス
スポーツ歴レスリング
サンボ
トレーナーアポロ菅原
大仁田厚
グラン浜田
デビュー1989年3月19日
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日本政治家スペル・デルフィン脇田 洋人
わきた ひろと
生田神社豆まき神事
(2018年2月3日)
生年月日 (1967-09-22) 1967年9月22日(56歳)
出生地大阪府和泉市
所属政党無所属(明政会)
配偶者早坂好恵
和泉市議会議員
当選回数3回
在任期間2012年9月 -
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スペル・デルフィン(Super Delfin、1967年9月22日 - )は、日本男性覆面レスラー政治家。本名:脇田 洋人(わきた ひろと)。大阪府和泉市出身。血液型A型。妻はタレント早坂好恵

ウルティモ・ドラゴンザ・グレート・サスケと並びジャパニーズ・ルチャの立役者の1人。

2012年から大阪府和泉市議会議員を務めている。
来歴
デビュー

プロレス入り前にはサンボを経験している。父親は土地家屋調査士で、若い頃、父の測量現場の仕事なども手伝っていた。デビュー戦は、1989年3月19日オランダアムステルダムのエイデンホールにおける対ブルドッグKT(現:外道)。その後、たけしプロレス軍団FMWを経て、ユニバーサル・プロレスリングに参加。

FMW所属時代、日本国外の試合に出るため乗った飛行機がエアポケットに入って強い揺れに見舞われて散々な目にあって以来、大の飛行機嫌いとなる。

たけしプロレス軍団時代より「モンキーマジック・ワキタ」のリングネームを用い、ユニバーサル時代の初期には前座としてMASAみちのく(現:ザ・グレート・サスケ)と組み、ブルドッグKT(現:外道)&クーリーSZ(現:邪道)と主に対戦。その後、MASAみちのくと共にメキシコに渡った。
メキシコでの活動

メキシコで漫画『THE MOMOTAROH』をモチーフにした覆面レスラー「モモタロウ」なる覆面レスラーとなり、スコルピオ・ジュニアやアンヘル・モルタルらと共にルードとして活躍する。なお、このマスクは帰国後に著作権の関係もあり使用できなくなったが、当作品の原作者であるにわのまことは、モモタロウという名前のレスラーが実現したことを喜んでおり、その旨のコメントと自身のイラスト入りのハガキを週刊プロレスに投稿し、同誌読者欄に掲載された[1]

1991年、スペル・エストレージャ'91というシリーズにてアカプルコ出身の謎の覆面レスラー「スペル・デルフィン(当時のマスクは、顎まで覆うタイプ)」として一度帰国するも正体は明かさなかった。デルフィンはしばらくしてリンピオからルードに転向し、シリーズ後に再度メキシコに遠征する。
日本に帰国

1992年、スペル・エストレージャ'92というシリーズにて再度帰国。モモタロウのマスクを被り、モンキーマジック・ワキタのリングネームで試合に登場したが、三本勝負での二本目でモモタロウのマスクを脱ぎ捨てその下に被っていたスペル・デルフィンのマスクをあらわにし、スペル・デルフィンとして活動することを表明した。
みちのくプロレスに参加

ユニバーサルにて、ブラックマンマスカラ・コントラ・マスカラで破ったり、セレスティアルを破りUWFウェルター級王座に就くなどして活躍するが、経営難によるギャラの不払いに端を発し、1993年ザ・グレート・サスケみちのくプロレス旗揚げに参加。ルード軍「デルフィン軍団」を率いてサスケのライバルとして一時代を築いた。

1994年新日本プロレス主催の第1回「BEST OF THE SUPER Jr.」では、優勝決定戦まで進出。この試合では半分が獣神サンダー・ライガーのコスチューム(通称:デルイガー[2])で登場する。

この頃、前述した飛行機嫌いゆえ、大阪の自宅から新幹線で岩手まで通っていた。
股くぐり事件

1995年ディック東郷が率いるルード軍「平成海援隊」(後に軍団名を「海援隊☆DX」に改名)と抗争状態になるが、この頃から試合での不甲斐なさが目立ち、他のデルフィン軍団が奮闘する中、デルフィンが一人ダウンしている事も多くなった。マスクも破られたり、剥ぎ取られて素顔を晒して制裁を受ける事も度々だった。見かねたサスケが率いる正規軍とも共闘する(この時点でデルフィン軍団は正規軍に吸収されたといえる)が状況は変わらなかった。

1997年6月22日、頂上決戦となった福島県浪江町での大会におけるデルフィン対ディック東郷戦において、デルフィンが東郷の猛攻で戦意喪失、「俺の股をくぐれば許してやる!」と東郷のマイクアピールを受けて、言われるがまま四つん這いで股をくぐる。

東郷のアピールはかつて覆面剥ぎマッチや髪切りマッチなどで連敗した高く厚い壁であったデルフィンのあまりの不甲斐なさに業を煮やして、そこまで言われれば発奮するだろうと思っての事だったが、本当にくぐった事で海援隊メンバーは激怒、逆にそれまで以上の制裁を受け、マスクを破られコスチュームを切り裂かれ、着色スプレーで背中に「バカ」と書かれるという事件が発生。怒った観客は暴動を起こし、デルフィンはシリーズ途中で失踪してしまう。その後、試合会場に素顔にサングラス姿のデルフィンが現れ、試合後のサスケが檄を飛ばし、デルフィンは復帰を宣言。

デルフィンは新たに「大阪臨海アッパー」なる技を習得して復活。肉体改造にも成功し、復帰戦となった10月10日両国国技館大会の6人タッグでは上半身裸のコスチュームで以前との筋肉の違いを見せつけ、観客からは感嘆の声も上がった。試合の最後で東郷に「大阪臨海アッパー」を決めてKO、雪辱を果たした。
大阪プロレスを旗揚げ

海援隊☆DXがWWF(現:WWE)参加のため離脱。デルフィンは今後の団体運営に対する考え方で、サスケと対立するようになる。

1999年薬師寺正人星川尚浩、瀬野優(大王QUALLT)、練習生の木川勇人(現:HUB)、レフェリー松井幸則らとともにみちのくプロレスを退団。大阪プロレスを旗揚げする。以降サスケとは絶縁状態が続いた。

2003年、サスケが議員になったことにより、みちのくプロレス社長となった新崎人生のブッキングによって、みちのく10周年記念大会にてサスケvsデルフィン戦が実現し、デルフィンが勝利する。また、この頃に大阪プロレスの事務局長も務めていた元タレントの妻と二度目の離婚(初婚は一般女性)。

えべっさん(現・菊タロー)の紹介で、2003年12月24日タレントの早坂好恵との再婚を果たした。大阪プロレス名物6人タッグでは、えべっさんから「誰が嫁さん紹介したんや?!」としばしネタにされ観客の笑いを誘い、会場は微笑ましい空気に包まれた。

大阪プロレスでは2006年2月26日、ギミック上の弟であるスーパードルフィンをデルフィンスペシャル0号で破り、大阪プロレス王者となった。4月16日松下IMPホールでは、新崎人生と初のシングルマッチを行い勝利。5月21日、大阪プロレスIMPホールにて南野たけしと大阪プロレス王者&東北ジュニアヘビー級ダブルタイトルマッチを行い、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利し二冠王になる。


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