この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "スペツナズ"
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年1月)
スペツナズ (спецназ [sp??ts?nas], Spetsnaz) とは、ロシア語の「特殊任務部隊」(Войска? специа?льного назначе?ния)の略語である。
第二次世界大戦中にも複数の指揮・命令系統に類似の名称・任務を有する部隊が存在したが、当項目では現存する特殊部隊について記述する。 前記されているように本来「スペツナズ」という言葉はあくまで「特殊部隊」程度の意味しか持たない。平たく言えば、SPECIAL FORCES(特殊部隊)やSWAT(アメリカ警察・FBIなど法執行機関の各管轄に存在する特殊部隊の総称)、消防署レスキュー隊などもロシア語では「スペツナズ」と訳される。事実、ロシア連邦保安庁やロシア内務省、ロシア対外情報庁などにもそれぞれの特殊任務部隊(スペツナズ)が存在する(#部隊の一覧を参照)。 それら数多の「スペツナズ」のうちに、本稿で記述する元ソビエト連邦軍情報機関・現ロシア連邦軍参謀本部情報総局(ГРУ, GRU)に所属する特殊部隊も含まれている。このGRU所属の特殊部隊群は、イギリス陸軍特殊空挺部隊「SAS」、アメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズ(Navy SEALs)同様、戦時における敵陣付近での偵察、夜間戦闘や潜入工作といった特殊軍事行動、破壊工作や要人暗殺、電子戦闘等を主任務とする一方で、平時にもテロ行為に対する治安維持活動や要人警護、仮想敵への事前偵察活動(スパイ)等、幅広い活動を行っている。[1]ただし、その活動内容はSVRのザスローン部隊やFSBのアルファ部隊やヴィンペル部隊、ロシア連邦軍参謀本部特殊作戦指揮部のCCOほど先鋭化はしていない。 1950年10月24日、ソ連国防相アレクサンドル・ヴァシレフスキーソ連邦元帥と参謀総長セルゲイ・シュテメンコ大将の命令[2]により、1951年5月1日までに各120人の46個独立特殊任務中隊が創設された。[3]総員数は、5,500人を僅かに超えた。しかし、軍縮が始まった1953年、35個特殊任務中隊が解散された。 1957年1月11日、シェルストネフ少将は、中隊が多方面に渡る戦闘能力を有していないと主張し、中隊編制の代わりに大隊編制(400人)規模の特殊任務部隊を創設することを提案した。1957年8月29日付地上軍総司令官令により、5個独立特殊任務大隊が編成された。当時、ジューコフ元帥はスペツナズ将校養成のために、GRUにタンボフ第2空挺学校を開校することを構想していたが、彼が失脚したため、結局この学校は創設されなかった。 1961年8月20日、ソ連共産党中央委員会は、「パルチザン支隊の組織及び装備のための要員訓練及び特殊機材の開発に関する」決定を公布した。当決定に従い、1962年2月5日、参謀本部は戦時におけるパルチザン運動の展開のために、1,700人の予備役軍人を選抜して旅団に編入し、1ヶ月以内に召集を行うことを軍管区司令官に命令した。1962年3月27日付参謀本部令により、特殊任務旅団の定数草案が立案された。1962年末までに、ベラルーシ、極東、ザカフカーズ、キエフ、レニングラード、モスクワ、オデッサ、沿バルト、沿カルパチア及びトルキスタン軍管区に、常設の特殊任務旅団が編成された。この再編の結果スペツナズは、12個独立中隊、5個独立大隊及び10個旅団となった。 1963年、ベラルーシ、沿バルト及びレニングラード軍管区領域において、スペツナズの最初の大規模演習が行われた。演習は成功と認められたが、1964年末までに、3個大隊及び6個中隊が削減された。 1968年、リャザン空挺学校に、スペツナズ将校養成のための第9生徒中隊が創設された。教育プログラムには、英語、ドイツ語、フランス語及び中国語の研究が含まれた。1970年から、部隊の戦闘訓練プログラムには語学訓練が含まれた。スペツナズは仮想敵の言語を研究したが、40時間の語学訓練では基本フレーズ以下しか教育することができず、全ての期待はソ連国内の非ロシア系民族にかけられた。 1977年8月、フルンゼ名称軍事アカデミーにおいて、偵察学部にスペツナズ将校訓練教育グループが創設された。1978年9月1日から、当グループは授業に着手した。 1979年5月2日、来るべきアフガン侵攻に備え、第154独立特殊任務支隊が編成された。支隊は、4個中隊(1個BMP-1中隊、2個BTR-60中隊、1個兵器中隊)と通信、ZSU-23-4「シルカ」、自動車及び物的保障の独立小隊から成り、総員520人だった。また支隊兵士は、ウズベク人、トルクメン人及びタジク人である1年半を勤務した2期目の召集兵からのみ選抜された。支隊の全兵員には、アフガン軍の軍服と身分証明書が支給された。 11月22日、支隊は飛行機でバグラムに投入された。12月13日、タジ・ベク宮殿の警備強化のために、カーブルへの前進が支隊に命令された。12月27日、支隊は、KGBのアルファ部隊と共同でこの宮殿を攻略し、ハフィーズッラー・アミーン革命評議会議長(書記長)を殺害した(嵐333号作戦)。 1980年2月29日、第154支隊と同じ編制を有する第173支隊が編成された。支隊は1984年にだけアフガニスタンに投入された。 1980年1月から1981年10月まで、第177独立特殊任務支隊が編成された。1981年10月にこの支隊はアフガニスタンに投入された。第154及び第177支隊は1984年まで、主としてパイプラインと山岳路の警備に従事した。 1984年、反乱軍のキャラバン対策のため、第154独立特殊任務支隊はジェララバードに、第177支隊はガズニに転移し、1984年2月10日、第173支隊はクシュク市地区で国境を越え、1984年2月14日カンダハル市周辺に到着した。
概要
歴史
創設と発展
アフガン戦争アフガン戦争中のスペツナズ(1988年)