スペイン黄金時代美術
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ディエゴ・ベラスケス:『ラス・メニーナス』または『フェリペ?四世の家族』、1656年、画布に油彩、310?cm?×?276?cm?、プラド美術館

スペイン黄金時代美術(スペインおうごんじだいびじゅつ)ではレコンキスタ完了期から1700年ハプスブルク家支配の終了に至る時期の美術の流れを扱う。「スペイン黄金世紀絵画」とも。17世紀バロック絵画の中で「陽の沈まぬ帝国」を達成したスペインの美術はその独自性と豊かさから特筆される。
前史 1516年まで

イスラム勢力をイベリア半島から追い出すレコンキスタが1492年に完了し、ふたりでスペイン王座に就いたイサベル1世フェルナンド2世は本格的に絵画のパトロネージュを開始する。しかし当時のスペインは美術の中心であったイタリアの諸都市の美術に近づける環境ではなく、自国の審美眼も肥えたものではなかった。相次ぐ戦争によって文化はあまり重きを置かれなかったことや、イスラーム支配による絵画芸術の伝統の断絶など様々な要因があげられるが、外国から芸術家をスペインに招聘するという形でその後進性を埋めようとした。彼らは当時都が置かれていたトレドや貿易の一大拠点のセビリアに集い、後に繋がる美術の土壌を作っていった。

1492年、バルト海沿岸のレバル(現在のエストニア、タリン)出身で、フランドル地方のブリュージュフランドル派絵画を学んでいたミケル・シトーはスペイン宮廷に仕えることとなった。そこでフェルナンド王の肖像などを北方的なタッチで描きだし名声を博した。他にも多数宗教画などを描き、その後の王族に愛され後進に確かな影響をもたらすものの、20世紀になるまで忘れ去られ現在はほとんど作品が残っていない。他にはこちらもフランドル派の画家フアン・デ・フランデスが陰影のしっかりした北方的な宗教画や肖像画を描いている。このように北方ルネサンスのフランドル絵画と密接な関係にある。ただスペイン出身の画家も現れ始め、パレンシア出身のペドロ・ベルゲーテはフランドル派の描き方を習得した後イタリアへ旅して、ウルビーノの宮廷とも関わった可能性が高い人物で、1483年にスペインへ帰ってくる。彼のイタリア風の表現は宮廷のみならず教会も欲しがり、広く影響を与えた。おそらくスペイン人画家で最初期にイタリアの表現や技法をスペインに本格的な形で導入した人物であるから、美術史的に重要な人物である。イタリアからの影響という点ではフアン・デ・ボルゴーニャがフレスコ画の技法をイタリアから導入したことも特筆される。アビラトレドの大聖堂にトスカーナ的な彼のフレスコ画が多数残っている。

宮廷以外の地域でも絵画の革新が興った。貿易と金融で当時スペイン一の豊かさを誇ったバレンシアではイタリアの画家パオロ・ダ・サン・レオカディオが写実性に富んだ作品を生み出し、バレンシア出身の画家フェルナンド・イェーネス・デ・ラ・アルメディナは、同時期に活躍していたレオナルド・ダ・ヴィンチの様式を見事に吸収している。同じくバレンシアのエルナンド・リャノスもイタリア絵画の流れを汲んだ作品を多く描いている。同じく港湾都市のバルセロナでもミラノからナポリまでを渡り歩いて修業したペドロ・フェルナンデスが現れ、主に祭壇画で活躍した。セビリアではアレホ・フェルナンデスが1540年代までセビリアの画壇に君臨していた。

これらのようにフランドル派とイタリアルネサンス絵画からどん欲に学び、以降の強固な素地を創り上げた。しかし学びはしたがスペインに純ルネサンス的な絵(例えばギリシアローマ神話などを画題にしたものなど)は流行らず、熱心なカトリシズムのため宗教画が主であった。また、スペイン人の画家も活躍し始めたものの、やはり外来の画家の方が先進的だとされ重宝される時代は17世紀まで顕著である。
陽の沈まぬ帝国 1598年まで

ハプスブルク家出身のフェリペ1世の短期間の統治の後、1516年に即位し空前の大帝国を統治したカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)と、それを受け継ぎ1598年まで即位したフェリペ2世の時代を扱う。新大陸の資源による莫大な収益と、組織された官僚制や常備軍を備えた中央集権国家が完成され絶頂期を迎えたが、相次ぐ海外遠征や宗教戦争に関与した時代である。

16世紀前半はスペインにマニエリスムの様式が導入された時期である。主な画家としてペドロの息子アロンソ・ベルゲーテとペドロ・マチューカが挙げられる。ベルゲーテは父親の没後イタリアに渡り、各地で絵の修業をしたのみならずミケランジェロから彫刻を学んだ。1518年に戻り当時のイタリアで起きていたマニエリスム様式をスペインに導入した。同時代の最も優れた画家として評価され、スペインで自立的な活動ができた最初の画家といわれる。経済的にも裕福だったと伝わり、最高の名誉である宮廷画家にもなった。しかしカルロス1世とも面会しグラナダの宮殿や教会装飾を担当する予定であったが実現せず、愛想をつかした彼は1526年以降は絵よりも宗教的な法悦を表した彫刻での表現に軸を移していく。実際カルロス1世はスペイン王であったものの相次ぐ遠征でスペインの宮廷にはほとんどいなかったため、宮廷画家との綿密な打ち合わせは困難だったと考えられる。

ペドロ・マチューカもベルゲーテ同様に長くローマで学び、ほぼ同時期にスペインに戻ってきた。ヴァチカンラファエロの工房の一員として働いていたとされ、彼の作品にもラファエロ風の聖母子像がある。ただしスペインに戻ると同僚のベルゲーテの影響かマニエリスム的な表現へと移行する。また彼は建築家としても活躍し、アルハンブラ宮殿にイタリアルネサンス様式の宮殿を設計するなど、多方面に才能を発揮した。

この時代はその強大な経済力と権力から、ハプスブルク家勢力下の地域から名画を多数収集し、王室のコレクションが形成されていった。裕福な貴族たちもフランドル派の絵(当時フランドル地域もスペイン領)やヴェネツィア派の絵を購入するようになる。また、カルロス1世は1548年ドイツのアウクスブルク滞在中にティツィアーノに『騎乗像』を描かせている。ティツィアーノを気に入ったカルロス1世は彼に年金を与え特別にもてなし、フェリペ2世は彼をマドリードに住まわせている。それ故にティツィアーノの絵画は宮廷画家を驚かし、貴人の審美眼を高めた。彼の後期の作品が持つ色彩表現やタッチは後世のスペイン画家たちに計り知れない影響を与えたのだった。

16世紀後半フェリペ2世の時代になると、版画技術の向上や交易の進展でイタリアの版画の影響がよく見られるようになる。マルカントニオ・ライモンディのラファエロの作品を写した版画がスペインに広く流通した。これまではフランドルなど北方的な要素が強かったスペイン絵画もイタリア志向が強まり決定的になった時代である。それを「Secondhand Renaissance」と形容する学者もいる。図像も技法もイタリア絵画に準拠する傾向が強まり、独創的な表現は現れなかった。この時代周辺の代表的な画家にフアン・コレーア、フアン・ソレダ、ヴィンセント・マシップ、フアン・デ・フアネスら、フランドル出身のペドロ・カンパーニャがいる。

1561年マドリードに首都が遷り、フェリペ2世自身は郊外のエル・エスコリアルに住んだため新たな宮殿や教会が多数建てられた。そのため画家の需要は激増した。この活気に満ちた時代で特筆するべき人物としてはルイス・デ・モラレスがいる。「聖なるモラレス」と形容される彼は1545年のトレント公会議といった対抗宗教改革の意識を持ち、深くカトリックに帰依しある種の神秘体験を経験している。そのため彼の絵は宗教画しかない。ただ聖母子の優しい表現や、生々しいピエタの表現などその絵画技術は卓越しており注目される。ポルトガル系の家柄に生まれたアロンソ・サンチェス・コエーリョはティツィアーノの作風を学び、肖像画家として絶大な名声を保持した。彼はまた宮廷画家としてエスコリアルの内部装飾を担当し、多くの宗教画を描いている。エスコリアル宮の装飾はこの時代の最大の仕事であり、コエーリョ以外にも耳と発声の障がいを患ったフアン・フェルナンデス・デ・ナヴァレッテが活躍し、帝国の威容を誇示した。ただエスコリアル宮も外国の、主にイタリア系の画家が多数加わっており代表的な人物としてはフェデリコ・ズッカリとその後継者のペッレグリーノ・ティバルディがいる。カトリックの盟主であったフェリペ2世の拠点ということだけあって、この時代のカトリック圏の芸術の粋を集めた壮麗な空間が誕生したのである。
エル・グレコ

エル・グレコは、フェリペ2世の時代で最も重要な芸術家であり、後期マニエリスムの代表的存在である。


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