1列目:イサベル1世、フェルナンド2世、コルテス、イグナチオ・デ・ロヨラ、カルロス1世、アビラのテレサ
2列目:セルバンテス、ゴヤ、ホセ・マリア・デ・ペレーダ
スペイン人(スペインじん、西: el pueblo espanol)は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島の国家スペインの国籍保持者もしくはその住民。
スペイン国家の住民を表す用語として、los pueblos de Espana(スペイン国家の諸民族)なる表現もしばしば用いられる。 スペインという国の成立は、西欧主要国の中でも比較的古い部類に入る。しかしスペイン人という民族グループの成立は、統一の立役者としてスペイン人を自負するカスティーリャ王国の住民と、その過程で失われた国々(カタルーニャ君主国、ナバラ王国など)の住民という対立軸から、今日に至るまでスペイン国民全体を纏める存在にはなり得ていない。またスペイン人(カスティーリャ人)の間でも、初期からのカスティーリャ王国住民と、後々に併合された国(アラゴン王国・レオン王国)や、レコンキスタが完成するまでの長期間をイスラム圏で過ごしたアンダルシア地方の住民とで、文化的な対立が存在している。 現在のスペインをおおむね含む体制が成立したのは1469年のカスティーリャ・アラゴン連合の成立、及び同国による1492年のレコンキスタ完了によってとなる。だがあくまでも中世・近世的な領域拡大であって、集権的な国民国家が形成された訳ではなかった。そのような試みが行われるのは18世紀頃に入ってからであるが、中央集権を行うには地方勢力を抑えられるだけの牽引力が必要となるにもかかわらず、カスティーリャ人の領域であるイベリア半島中央部は広大ながら貧しい地域であった。産業革命が起きると、沿岸部のカタルーニャと資源地帯のバスク地方が発展する一方、双方を持たないカスティーリャは一層に弱体化した。そもそもスペインという枠組みも相次いで植民地を失う中で(以前に得ていた植民地からの利益は浪費により失われた)、国際的な権威を失墜させていた。 地方勢力の不満と国家主義者の危機感は、スペイン内戦を引き起こした。内戦を制したフランシスコ・フランコ政権下で推し進められた国家主義は、地方の民族主義を徹底して弾圧した。しかし逆に、スペイン人と対立する民族への帰属心を一層に強める効果ももたらし、やがてフランコ死後に成立した自由主義政権では、各民族運動の議会進出が進んだ。民主化後のスペインは、フランコ政権時代の反省から自治権の拡大などの政治的譲歩に応じ、1978年に制定された新憲法(スペイン民主化憲法)に「憲法は地方の自治と団結を保障する」との文章が記載された。 自治権は多くのスペイン主義者や地方主義者の穏健派に受け入れられたが、過激な国家主義者達は自治権をスペイン国家解散への前哨と批判して、政府と地方運動の双方を攻撃した。
概要