スヘルデの戦い
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1944年9月15日から12月15日までの第21軍集団の行動

スヘルデの戦い(スヘルデのたたかい、: Battle of the Scheldt)は、第二次世界大戦中の1944年10月2日から11月8日までの間に、ベルギー北部及びオランダ南西部で、連合国軍とドイツ第15軍との間で行われた戦闘。連合国軍はガイ・シモンズ(Guy Simonds)中将指揮下のカナダ第1軍(First Canadian Army)が基幹となった[1]
概要

1944年6月のノルマンディー上陸以降、9月までに連合国軍はフランス北東部の山岳地帯ではジークフリート線へ、低地部ではベルギーオランダ国境線まで進出していた。ロンメルにより補強されていた大西洋防壁はノルマンディー方面で突破されたあとも依然として健在であり、連合国軍はブリテン島からの補給経路をすべて、ノルマンディーやコタンタン半島の小さな穴から供給するかプロヴァンスあるいはイタリア方面から調達しなければならない状態であった。

ノルマンディーから東へジークフリート線まで数百マイルも伸びた兵站線の負担を緩和することは喫緊の課題であり、9月4日に奪還されたベルギー・アントワープの港湾としての稼動は、補給問題解決の重要な手段であった[2]

連合国軍は1944年6月6日のD-デイにフランスノルマンディー上陸して以来、イギリス第2軍(Second Army)をネーデルラント(低地諸国)に前進させ、ブリュッセル及びアントワープを占領したが、なおアントワープ港の港湾施設は損なわれてはいなかった[訳注 1]。しかし、アントワープはスヘルデ川を遡上した内陸にある港湾であり、その河口域(オランダ領)のドイツ軍は依然として健在であった。河口南部の主要な都市はブレスケンズ、北部は南北ヴェファラントおよびワルヘレンからなる半島[3]であり、その先端はスヘルデ河口要塞が構築されていた。イギリス軍の前進はアントワープを占領したところで停止しており、その間ドイツ軍は海への出口となるスヘルデ川河口地帯を支配し続けていた。

アントワープ港の封鎖への対応は9月いっぱい何も行われなかった。これは、9月17日に発動されたドイツ軍占領地域へ一挙に進攻するという大胆な計画のマーケット・ガーデン作戦に連合国軍の逼迫していた物資の多くが振り向けられていたためであった。また一方、スヘルデのドイツ軍は防衛線を既に構築し迎撃の準備を整えていた。

10月初め、甚大な損害を出して失敗したマーケット・ガーデン作戦の後に、連合国軍はカナダ第1軍を先頭にアントワープ港を支配下に置く行動に着手した。スヘルデ川河口域とワルヘレン島はローマ期から海上交通の拠点であり、中世バイキングの頃には砦が築かれ、英蘭戦争ナポレオン戦争においても争衡地となった知られた要衝の地であり、堅固に構築されたドイツ軍の防御陣地は連合国軍の行動を遅延させるに効果的だった。さらに、河口地帯の湿性で複雑な地形は、スヘルデの戦いを特に厳しく犠牲の多い戦いにさせ、さらにこの戦闘によるカナダ軍の損害は徴兵制度の危機(Conscription Crisis)を悪化させることとなった。防御していたドイツ軍は陸地に地雷、水中には機雷を敷設し、さらに退却線に火砲と狙撃兵を配備していた。この困難な戦闘は5週間に及んだが、カナダ第1軍は他の国籍の部隊の支援を受け、多くの水陸両用作戦を行い、障害物を乗り越え、犠牲の大きい開平地での戦闘の後にスヘルデの戦いに勝利した。

連合国軍は最終的には11月8日に港湾地域の掃討を終了したが、12,873名の犠牲(死亡、負傷及び行方不明)を出し、その半数6,367名はカナダ軍将兵であった[1][4]。ブレスケンスやフリッシンゲン・ミテルブルフなど伝統的な街並みはイギリス本土からの絨毯爆撃と海上からの艦砲射撃により灰燼と化したが、戦後その街並みは復興された。

この戦いによりドイツ軍は脅威とならなくなったが、アントワープ港までの掃海作業が必要だったために、最初の輸送船が連合国軍の物資供給のため港へ荷揚げできるまでにさらに3週間(1944年11月29日まで)を必要とした。
スヘルデの解放

参考図: ⇒The Battle of the Scheldt September-November 1944 Part I Planning and Operations North of Antwerp の ⇒Map 8 参照

1944年9月12日に、ガイ・シモンズ中将の臨時指揮下のカナダ第1軍はスヘルデ地区掃討の任務を与えられた。この時、指揮下にはカナダ第2軍団(II Canadian Corps)及びイギリス第1軍団(British I Corps)だけでなく、ポーランド第1装甲師団、イギリス第49、第52歩兵師団が配属された。

スヘルデ川河口地区の開放計画は4つの主要な作戦行動がそれぞれ関連し、困難な地形の中で行われた。

第1段階の任務はアントワープ北方の地区の掃討とザイト・ベフェラント(Zuid-Beveland)地区への安全な交通の確保

第2段階はレオポルト運河の北、ブレスケンス・ポケット(Breskens Pocket)の掃討(「スイッチバック作戦」)

第3段階はゾイト・ベヴァラント地区の占領で、これは「ヴァイタリティ作戦」と名付けられた。

最終段階は防御をかためられてドイツ軍の強力な要塞と化していたワルヘレン島(Walcheren)の占領(「インファチュエイト(Infatuate)作戦」)であった。ワルヘレン島は大西洋の壁と呼ばれたドイツ軍の強固な防衛線の一部で、「ドイツ軍が強力な防御陣地を構築した」ものと考えられていた[5]
ヘント - テルネーゼン運河

9月21日、カナダ第4装甲師団は、「ブレスケンス・ポケット」と呼ばれたスヘルデ川南岸にあるオランダの町ブレスケンス(Breskens)周辺地区の掃討任務を与えられて、ヘント - テルヌーゼン運河(en:Ghent?Terneuzen Canal)の線のほぼ北の線に沿って移動した。ポーランド第1装甲師団はオランダ-ベルギー国境線に向かい、さらに東にアントウェルペン北方の重要な地区に進攻した。

カナダ第4装甲師団はムーブルッヘ(Moerbrugge)でヘント運河を渡河し橋頭堡を設けたが、レオポルド運河とレイエ川との二重線による強固な防御陣地に直面した最初の連合国軍部隊となった。ムーケルケ(Moerkerke)付近で攻撃を開始し、運河を渡り橋頭堡を築いたがドイツ軍の反撃に遭遇し多くの犠牲を出したため撤退した。

ポーランド第1装甲師団はヘント北東から東方への進攻は成功を収めた。この地域は装甲部隊には不向きで、また強固な抵抗に遭った、師団は9月20日に海岸に向け進攻し、テルネーゼンを占領しスヘルデ川南岸を東方へアントウェルペンまでを掃討した。

シモンズは、スヘルデ地区内のさらに遠方のゼーブルッヘ(Zeebrugge)からブラークマン入江(Braakman Inlet)まで、内陸へはレオポルト運河まで広がる、強力なドイツ第15軍に守られたブレスケンス・ポケットを攻略するのは多大な犠牲が必要とされると認識した。
アントワープ北方の戦闘北部前線図

10月2日にカナダ第2歩兵師団はアントワープから北方へ前進を開始した。10月6日に第1段階の目標のウーンスドレヒトで激しい戦闘となった。クルト・チル中将指揮下のチル戦闘団[訳注 2](Battle Group Chill)で増強されたドイツ軍は、ゾイト・ベヴァラントとワルヘレン島への直接の交通を支配するこの地区の確保を最優先するかに見えた。

平開で浸水した土地でのカナダ軍の攻撃は多大な損害を被ることとなった。激しい雨、罠そして地雷は前進を非常に困難にした。後に「暗黒の金曜日(Black Friday)」として知られることとなる1944年10月13日、カナダ第5歩兵旅団所属のカナダ・ブラックウォッチ(ロイヤル・ハイランド)連隊(The Black Watch)は攻撃に失敗しホーゲルヘイデ(Hoogerheide)付近で事実上全滅した。後続したカルガリー・ハイランダーズ連隊の進攻は成功を収め、その輸送小隊はコルテフェン(Korteven)駅の占領に成功した。さらにホーゲルヘイデで続いて激しい戦闘が行われ、ウーンスドレヒトを確保し、ザイト・ベフェラントとワルヘレンとの陸路を遮断した[訳注 3]。カナダ軍は第1の目標を達成したが、多大な損害を出してしまった。

この時、モントゴメリーは好機と判断し、スヘルデ川河口地域の開放を第21軍集団の最優先事項とする命令を発した。東側のイギリス第2軍は西に進攻しオランダ南部のマース川を掃討し、スヘルデ川河口地域をドイツ軍から反攻されないように確保した[訳注 4]

その間、シモンズはゾイト・ベヴァラント半島の頚部に兵力を集中させた。カナダ第4装甲師団はレオポルド運河から北へ移動しベルヘン・オプ・ゾームを占領した。10月24日には連合国軍の前線はさらに半島の頚部から先端へ前進し、これに対したドイツ軍の反撃はカナダ第2歩兵師団を分断できず、師団は西へそのままワルヘレン島に進攻した。
スイッチバック作戦ゼーユヴス・フラーンデレン位置図 左からスライス、テルネーゼン、フルスト

スヘルデの戦いにおける第2の作戦はブレスケンス・ポケットを縮小させるための激しい戦闘で始まった。ここで、カナダ第3歩兵師団はレオポルト運河を渡河する戦闘で頑強なドイツ軍の抵抗に遭遇した[6]

以前行われた9月21日からのムーブルッヘの戦闘(Battle of Moerbrugge)でカナダ第4装甲師団が敗退しており、ここでの戦闘は今回担当したカナダ第3歩兵師団が困難な局面におかれることを示していた。レオポルト運河とシップドンク運河(レイエ川)との間は強力なドイツ軍の防御に加えて、第3歩兵師団の進入路にあたる地域は浸水していた。

進攻に最適な個所は2本の運河の分岐点の東方すぐ近くの地点と決定されたが、そこのレオポルト運河を越えた狭く細長い乾いた土地は数百メートルの幅でしかなかった(マルデヘム - アールデンブルフ(Maldegem-Aardenburg)線を底辺とし頂点をムールスホーフト(Moershoofd)村のおよそ5キロメートル東とする長三角形を描く)[訳注 5]。 

10月6日から二面攻撃が開始され、カナダ第3歩兵師団の第7歩兵旅団は最初の攻撃行動としてレオポルト運河を渡河し、一方の第9歩兵旅団はポケット部の沿岸側あるいは北側から水陸両用攻撃を開始した。


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