スプーキー・トゥース
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スプーキー・トゥース
Spooky Tooth
出身地
イングランド カーライル
ジャンルハードロック
サイケデリック・ロック
ルーツ・ロック
プログレッシブ・ロック
活動期間1967年 - 1970年1972年 - 1974年1998年 - 1999年2004年2008年 - 2009年
レーベルアイランド・レコードCBSレコードA&Mレコード (米国/カナダ)、Ruf Records
共同作業者The V.I.P.'s、アート

旧メンバールーサー・グロヴナー
マイク・ハリソン
マイク・ケリー
グレッグ・リドリー
ゲイリー・ライト
アンディ・リー
ヘンリー・マッカロク
アラン・スペナー
クリス・ステイントン
ジョン・ホウケン
スティーヴ・トンプソン
ブライソン・グレアム
イアン・ハーバート
ミック・ジョーンズ
クリス・スチュワート
ヴァル・バーク
マイク・パトゥ
ジョーイ・アルブレヒト
マイケル・ベッカー
スティーヴ・ファリス
シェム・フォン・シュローク
トム・ブレフテリン

スプーキー・トゥース (Spooky Tooth)は、イングランドのロック・バンドである。主となる活動期間は1967年から1974年にかけてであるが、バンドはその晩年までに何度かの再結成を行った。
略歴

スプーキー・トゥース以前は、バンドの5人の創設メンバーのうち4人がアート(かつてはThe V.I.P.'sとして知られていた)というバンドでパフォーマンスを行っていた。アートの解散後、その最終ラインナップのメンバー(ギタリストのルーサー・グロヴナー、ボーカリストのマイク・ハリソン、ドラマーのマイク・ケリー、ベーシストのグレッグ・リドリー)が、1967年10月にアメリカのキーボード奏者/ボーカリストであるゲイリー・ライトを加えて、スプーキー・トゥースを結成した。ライトは、アイランド・レコードの創設者であるクリス・ブラックウェルによってアートのメンバーに紹介された[1]

彼らのデビュー・アルバム『イッツ・オール・アバウト』は、1968年6月にアイランド・レコードからリリースされ[2]スペンサー・デイヴィス・グループトラフィックブラインド・フェイスといったバンドの裏方も務めたジミー・ミラーによってプロデュースされた。

セカンド・アルバムである『スプーキー・トゥー』(1969年3月)も同じくミラーがプロデュースを担当しており[3]、ロック誌などのプレスから注目を集めた。同アルバムは、母国イギリスではデビュー作と同様セールス的に失敗したが、A&Mレコードから発売されたアメリカ盤LPは全米アルバムチャートでトップ50入りし[3]、オランダのアルバム・チャートでは最高4位を記録するヒットとなった[4]。本作がオリジナル・ラインナップによる最後のアルバム・リリースとなった。ラリー・ワイス (Larry Weiss)の楽曲「Evil Woman」と「Better by You、Better than Me」の今日ではクラシックとされているバージョンが収録されており、後者をジューダス・プリーストがアルバム『ステンド・クラス』(1978年)でカバーした。

リドリーが1969年にハンブル・パイへ加入し、アルバム『セレモニー』(1969年12月)では代わりにアンディ・リーが加入した[2]。『セレモニー』の実験的な内容は賛否両論を受けた。このプロジェクトはゲイリー・ライトによって持ち込まれたものだったが[5]、このアルバムが彼のバンドとしてのキャリアに終止符を打ったと考えられている。このレコードは「ロック史における大失敗の1つ」であると別の人物は述べている[5]。ライトが説明しているように、「……私たちは自分たちのアルバムではなくプロジェクトを行ったんです。それはピエール・アンリという名前のフランスの電子音楽作曲家によるものでした。私たちは『これは私たちのアルバムではなく、彼のアルバムです。ミュージシャンとして演奏しているんです』としっかりレーベルに言ったのです。そしてアルバムが完成したとき、彼らは言いました。『いやいや、これは素晴らしい。君たちの次のアルバムとしてリリースするつもりだよ』。私たちは『そんなことはできません。それは『スプーキー・トゥー』の方向性とは合い入れないものですし、それは私たちのキャリアを台無しにするでしょう』と言いました。そして、まさにその通りのことが起こったのです」[6]

ライトはアルバムのリリース後、バンドを脱退した。ハリソン、グロヴナー、ケリーはバンドに残り、アルバム『ザ・ラスト・パフ』(1970年7月)をジョー・コッカーグリース・バンドのメンバー(ギタリストのヘンリー・マッカロク、キーボード奏者のクリス・ステイントン、ベーシストのアラン・スペナー)と一緒にレコーディングした[2]1970年代にバンドと一緒にステージに立つ歌手マイク・ハリソン

1970年の秋、バンドはハリソン、グロヴナー、ケリー、キーボード奏者のジョン・ホウケン(元ナッシュヴィル・ティーンズ)、ベーシストのスティーヴ・トンプソンというラインナップによるヨーロッパ・ツアーに乗り出した。その後、グループは解散したが、ハリソンとライトは1972年9月に別のラインナップでスプーキー・トゥースを再結成した[2]

アルバム『ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ』は、1973年5月にアイランド・レコードからリリースされた再結成バンドによる最初のアルバムであった。創設ギタリストのグロヴナーは、ステージ・ネームとしてアリエル・ベンダーを名乗り、モット・ザ・フープルとチームを組んだため、バンドには復帰しなかった[3]。グロヴナーの後任はミック・ジョーンズとなり、創設ドラマーであるケリーに代わりブライソン・グラハムが後任となった。ベースはイアン・ハーバートから代わってクリス・スチュワートが担当した。

次のアルバム『ウィットネス』(1973年11月)では、オリジナル・ドラマーのマイク・ケリーがブライソン・グラハムと代わって復帰した。ゲイリー・ライトはバンド史において、この段階では支配的なソングライターであった。しかし、共にリード・シンガーを務めるハリソンがアルバムのリリース後に脱退し、マイク・パトゥがライトと並ぶ新たなボーカリストとなり、アルバム『ザ・ミラー』(1974年10月)をレコーディングしたとき、新しいベース奏者としてヴァル・バークが加入し、ブライソン・グラハムがドラムに戻った。しかしながら、アルバムの失敗によって、ライトは再びソロ・キャリアのためにバンドを離れ、グループは1974年11月に解散した[7]
その後のスプーキー・トゥース

ミック・ジョーンズは、1976年にフォリナーを結成した[2]

グロヴナーは、後にスティーラーズ・ホイールで演奏し、1970年代にモット・ザ・フープルバッド・カンパニーを結成するために脱退したミック・ラルフスの後任)に加わり、アリエル・ベンダーを名乗るようになった[2]。2005年、アリエル・ベンダー・バンドを結成し、いまだに時々その名でパフォーマンスしている[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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