スプリングフィールド
市
Springfield
噴水広場
愛称: 家庭の街、バラの街、チャンピオンの街、ザ・フィールド
州内での位置図
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度55分37秒 西経83度48分15秒 / 北緯39.92694度 西経83.80417度 / 39.92694; -83.80417
スプリングフィールド(英: Springfield)は、アメリカ合衆国オハイオ州の都市。クラーク郡の郡庁所在地である[4]。人口は5万8662人(2020年)。コロンバスの西72km、デイトンの北東40kmに位置し、付近ではオハイオ川の支流であるマッド川がバック川、ビーバー川と合流する。
廃線を利用したリトルマイアミスーセニックトレイルがニュータウンからここまで80kmにわたって延びており、ハイキングやサイクリングに人気がある。2004年には「アメリカの典型的な都市賞」(All-American City Award)に選ばれた。 ケンタッキー州出身の御者、ジェイムズ・デミントによって1801年に建設された。シャンペーン郡、マディソン郡、グリーン郡の一部が分離してクラーク郡が設立されると、1818年に郡庁所在地になった。州議会では近隣のニューボストン
歴史
スプリングフィールドを通る国道が建設されるとき、10年間にわたって政治家の間で対立が起こった。デイトンやイートンなどの都市は国道を南へ延伸するよう要請したが、当時のアンドリュー・ジャクソン大統領はインディアナ州リッチモンドへ西に延伸させた。1830年ごろ
1800年代、スプリングフィールドはO・S・ケリー、エイサ・S・ブッシュネル、ジェイムズ・レフェル、P・P・マスト、ベンジャミン・ワーダーなどの資産家に支配された。ブッシュネルは街にオハイオ・ブッシュネル・ビルディングを建設した[5]。マストは自身の農具企業を宣伝するため農園をオープンし、大衆紙を発刊した。ケリーは1894年にケリー・スプリングフィールド・タイヤ社を設立した。1900年ごろ
1900年ごろ、スプリングフィールドはフリーメイソン、ピシアス騎士団、オッド・フェローなどの秘密結社が高齢者や孤児のためのロッジを建設したため「家庭の街」と呼ばれた。また、グレスナー・マニファクチュアリング社がチャンピオンブランドの農機具を製造したことから「チャンピオンの街」とも言われたが、同社は1902年にインターナショナル・ハーベスター社に吸収合併された。インターナショナル・ハーベスター社はその後ナビスター・インターナショナルとなり、現在は大型トラックを生産している。クラーク郡庁舎
(2005年10月30日)
1902年、クラーク郡スプリングフィールド郡区の教育長だったA・B・グラハムは「少年少女農業クラブ」を旗揚げした。同年1月15日に郡庁舎の地下室で行われた初会合には10歳から15歳までの子ども約85人が集まった。クラブは頭脳(Head)、精神(Heart)、労力(Hand)、健康(Health)の“4H”を念頭に置いたことから4-Hクラブと呼ばれるようになり[6]、たちまち全国に拡大した。クラブの最初のプロジェクトは食品保存、園芸、簡単な農業などであった。設立式が行われた郡庁舎の地下は今もクラブのシンボルになっている。
1904年3月7日、警官を殺した罪で服役していた黒人のリチャード・ディクソンを殺害しようとし、千人を超す住民が刑務所に突入した。彼は射殺され、ファウンテン通りとメインストリートの角の柱に晒し首にされたうえ、なおも体を銃で撃たれた。暴徒化した群集はその後、黒人地区の大部分を焼いた[7]。1906年2月にはまたも群集によって黒人地区が焼かれた[8]。
それから60年後、スプリングフィールド市長に当選したロバート・ヘンリーはオハイオ州初の黒人市長であった。