スプリングフィールドM1903小銃
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スプリングフィールドM1903小銃スプリングフィールドM1903
スプリングフィールドM1903小銃
種類ボルトアクションライフル
製造国 アメリカ合衆国
設計・製造スプリングフィールド造兵廠
仕様
銃身長610mm
使用弾薬.30-03 スプリングフィールド
.30-06 スプリングフィールド
装弾数5発(箱型弾倉・クリップ)
作動方式ボルトアクション
全長1,115mm
重量3.9kg
発射速度15発/分
銃口初速823m/秒
歴史 
設計年1902年
製造期間1903年-
配備期間1905年-1949年
配備先アメリカ軍
関連戦争・紛争第一次世界大戦
第二次世界大戦
日中戦争
国共内戦
朝鮮戦争
ベトナム戦争
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スプリングフィールドM1903(: M1903 Springfield)は、アメリカ合衆国で開発されたボルトアクション式ライフルである。公式には1903年6月19日に採用された。

M1903は第一次世界大戦および第二次世界大戦を通して使用され、1936年セミオートマチックM1ガーランドが制式化されるが、不具合と配備の遅れにより1942年初期頃まで第一線で運用された。M1ガーランドへの代替後も、朝鮮戦争およびベトナム戦争まで狙撃銃として使用された。
開発
背景クラッグ小銃

M1903が採用されるまでの道のりは30年近く遡り、1870年代が端緒となる。1870年代の後期から陸軍はトラップドア式のスプリングフィールドM1873小銃(前装式だったスプリングフィールド銃を後装式に改造したもの)のような一般兵用小銃の後継品を探していた。陸軍ではこの期間、予算を減少させており、一般兵に対してはM1873を支給し続けており、様々な種類のボルトアクションライフルカービンが混在して使われていた。裕福な兵士は、しばしば自分で市販の銃を購入して使っていた。

陸軍は1865年には100万ドル以上を出費したが、南北戦争の終結と共に急速に先細りとなり、1892年の予算は5万ドル程度であった。新型小銃の要求はこのような状況下で明白になった。特に装薬の黒色火薬から無煙火薬への切り替えが急務であった(この流れは既に、フランスが1886年に採用したルベルM1886小銃から始まっていた)。

リーM1879小銃は脱着可能な箱形弾倉を備え、少数ではあるものの海軍に納入された。また、数百丁のレミントン・リーM1882小銃が1880年代の競作の末、陸軍に納入されたが、公式には採用されなかった。海軍はレミントン・リーM1885小銃に移行し、後に異なる形式のリーM1895小銃(ストレート・プル方式)を調達した。

M1885とM1895は、ともに米西戦争で陸軍小銃としても使われた。ジェームス・パリス・リーがリー小銃用に開発した、脱着可能式箱形マガジンは、後の小銃などに多大な影響を与えた。他の前述した特徴(たとえば無煙火薬)も、新型小銃が必要であることを明らかにした。

1892年、アメリカ陸軍ではスプリングフィールドM1873を更新するためのトライアルを実施し、最終的にスプリングフィールドM1892(国産化されたクラッグ小銃)および.30-40クラグ弾の採用が決定した[1]

しかし6年後の1898年に勃発した米西戦争において、アメリカ軍は当時最新式のモーゼルM1893小銃で武装したスペイン軍を相手に苦戦を強いられることとなった。モーゼルM1893は7x57mmモーゼル弾(英語版)(スパニッシュ・モーゼル弾)を用いるボルトアクション式小銃であった。挿弾子を用いることができないスプリングフィールドM1892は時間あたりの射撃回数が劣っていた上、スパニッシュ・モーゼル弾の威力も.30-40クラグ弾を上回っていた[1]
設計

M1903の基礎的な開発スケジュールは、モーゼル小銃を参考にした高威力弾薬を使えるようにした新型小銃を開発するという観点で、世紀の変わり目にスプリングフィールド国営造兵廠で始まった。

1900年、新小銃のために設置された委員会ではスプリングフィールド造兵廠が手がけた試作小銃の1つを新小銃の候補として検討した。その検討を踏まえて設計された2つの試作小銃が翌1901年に審査を受け、優れていると判断された一方にU.S. Magazine Rifle, Cal..30, Model of 1901(合衆国1901年式30口径弾倉付小銃)の名称が与えられた。軍部ではM1901が明らかにM1892よりも優れていることを認め、スプリングフィールド造兵廠にM1892からM1901への製造の切替の許可を与えたものの、およそ5,000丁が製造された時点で予算の削減と計画の変更が決定した[2]

その後、歩兵・騎兵両用の小銃とするべく、各国軍の戦訓を踏まえて30インチ、26インチ、24インチ銃身あわせて100丁が試作された。テストの結果、最も短い24インチ銃身が優れていると判断され、1903年6月19日には短銃身と細部の改良を組み込んだ設計案にUS Magazine Rifle, Caliber .30, Model of 1903(合衆国1903年式30口径弾倉付小銃)という名称が与えられた[2]。長い歩兵用小銃が標準的だった時代にあって、これは革新的なことだった。

M1903は.30-45弾(英語版)(後に.30-03弾と改称)を装填する小銃として設計された。.30-03弾は45グレインの無煙火薬を発射薬に用い、当時軍部内に存在した弾頭軽量化への反発を踏まえ、220グレインの弾頭を備えていた。しかし、220グレイン弾頭の.30-03弾の弾道特性は.30-40クラグ弾よりわずかに優れる程度で、重量のある弾頭に十分な初速を与えるための過大なエネルギーは機関部への負荷も大きかった。1906年、150グレインの尖鋭弾頭に改めた新型弾が.30-06スプリングフィールド弾として採用され、M1903もこれに合わせて再設計された[1]。照準器も、この弾薬により改善された初速と弾道を補うために、再び改修された。220グレイン弾頭を備える.30-03弾の初速は約700m/sだったが、.30-06弾の初速は約813m/sだった。薬莢のネック部分は少しだけ短くなった。機関部の左側面。マガジンカットオフレバーはオフ(OFF)の状態になっている

M1903には弾倉から薬室への給弾を停止するマガジンカットオフ機能があり、銃左側面のレバーで切り替えを行う。これは連発銃の弾倉を常用すると弾薬の消費量が膨大になりうるという懸念のため、南北戦争中のスペンサー銃の頃からアメリカ軍が採用する連発式小銃の要件に含まれてきた機能である。すなわち、通常はマガジンカットオフを有効にして単発銃として用い、大規模な攻撃や騎兵突撃などの緊急時にのみ連発銃として用いるという発想に基づいている。当時はマガジンカットオフ解除を兵士らに命じるためのラッパ譜もあった。M1903が使われる頃には弾薬消費に関する懸念が杞憂であることが明らかになっていたが、それでもこの機能は最後まで残された。マガジンフォロワーの影響を受けずボルトを操作できるとして教練の際に利用されることはあったが、実戦では全く使われなかった[3]収納式のスパイク型銃剣を特徴とする最初期のM1903を携行した兵士

セオドア・ルーズベルト大統領はM1903の銃剣についての不満を示した。元々、M1903は銃本体に埋め込まれたスライド式のスパイク型銃剣を備えていた。銃身の下に銃剣が並行して配置され、プラスドライバーに似た形状の先端が露出していた。銃剣止めのボタンを押すと固定が解かれ、銃剣を引き出して固定、あるいは抜き取ることができた。これは旧式小銃で用いられていたものとほぼ同設計で、米西戦争の戦訓から小銃の射程と火力を重視する風潮が生まれており、今後銃剣格闘の機会は減少すると思われていたことと、ナイフ型銃剣より製造コストを抑えられることから採用されたものだった。伝えられるところによれば、武器省長官ウィリアム・クロージャー(英語版)による銃剣格闘を含むM1903のデモンストレーションが行われた際、ルーズベルトは自らナイフ形銃剣を取り付けたクラッグ小銃を手に取ると、クロージャーには銃剣を展開したM1903を構えるように命じ、そして銃剣同士を突き合せてM1903の銃剣を真っ二つにへし折ることで銃剣の強度不足を示したと言われている。その後、ルーズベルトはウィリアム・タフト陸軍長官に宛てた書簡の中で、「あのスパイク型銃剣は私が知る内で最も貧相な発明だと言わねばなるまい」と切り出し、日露戦争やフィリピン方面における実際の運用などを踏まえて銃剣を再設計するべきだと主張した。最終的にはナイフ型のM1905銃剣が採用された。その後、スパイク型銃剣を組み込んで製造されたおよそ74,000丁のM1903は、その大部分がM1905銃剣を着剣できるように改修された。同年、新型のM1905照準器も採用されている[4]


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