スパーキー・アンダーソン
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スパーキー・アンダーソン
Sparky Anderson

基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 サウスダコタ州マクック郡ブリッジウォーター
生年月日 (1934-02-22) 1934年2月22日
没年月日 (2010-11-04) 2010年11月4日(76歳没)
身長
体重5' 9" =約175.3 cm
170 lb =約77.1 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手
プロ入り1953年
初出場1959年4月10日
最終出場1959年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


フィラデルフィア・フィリーズ(1959)

監督・コーチ歴


サンディエゴ・パドレス(1969)

シンシナティ・レッズ(1970 - 1978)

デトロイト・タイガース(1979 - 1995)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2000年
選出方法ベテランズ委員会選出
カナダ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2007年
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スパーキー・アンダーソン(Sparky Anderson, 本名:ジョージ・リー・アンダーソン(George Lee "Sparky" Anderson)、1934年2月22日 - 2010年11月4日)は、アメリカ合衆国サウスダコタ州出身のプロ野球選手内野手)・監督

ニックネームは"Captain Hook"(キャプテン・フック)。ナショナルリーグシンシナティ・レッズ)、アメリカンリーグデトロイト・タイガース)両方でワールドシリーズを制した最初の監督となった。ジョージ・W・ブッシュ大統領(中央)と会話する
スパーキー・アンダーソン(左)、ヨギ・ベラ、2001年
経歴
選手・マイナーリーグ監督時代

1953年にプロ入り。1955年ブルックリン・ドジャースのマイナーチームから選手生活が始まった。1959年フィラデルフィア・フィリーズでメジャーデビューし、この年はレギュラー二塁手として152試合に出場するが、打率.218、本塁打0に終わる。その後もマイナーでプレイを続けるが、メジャー昇格のチャンスはなく、選手としてのメジャー歴は1959年のみであった。

1964年よりマイナーの監督になり、1968年にはレッズのマイナー組織に監督として移籍。1969年にはサンディエゴ・パドレスのコーチとなり、翌1970年にレッズの監督に就任した。
レッズ時代

1970年のレッズ監督就任時には、アンダーソンはあまりにも知名度がなかったため、マスコミから「Sparky, Who?(スパーキーって誰?)」と記事に書かれたことがある。高校時代の同級生だった広報部長がアンダーソンの監督としての能力を高く買っており、総支配人に推薦したのがきっかけだった。野球センスを口を極めて絶賛したところ、電撃的なアンダーソンの監督就任が決まった[1]

そして、アンダーソンは監督就任1年目にしていきなり102勝をあげてリーグ優勝を果たす。しかしこの年のワールドシリーズでは当時最強を誇ったボルチモア・オリオールズの前に敗退する。2年後の1972年にもリーグ優勝するが、1972年のワールドシリーズではディック・ウィリアムズ監督のオークランド・アスレチックスに敗退。アスレチックスはこの年から三連覇を果たすこととなる。1973年には地区優勝を果たすがプレーオフでニューヨーク・メッツに敗れ、1974年には地区2位に終わった。

迎えた1975年、シーズン108勝をあげ、リーグチャンピオンシップでもピッツバーグ・パイレーツに3勝無敗でボストン・レッドソックスとのワールドシリーズに進出。シリーズは熱戦が続き、3勝2敗と王手をかけた第6戦は延長戦にもつれ込み、12回にレッドソックスの捕手カールトン・フィスクにサヨナラ本塁打が出て最終戦に持ち込まれた[2]。続く第7戦も接戦となったが、同点の9回表にレッズが1点を奪い、ついにワールド・チャンピオンに輝いた。

1976年もシーズン102勝をあげて地区優勝。リーグ優勝を果たしてワールドシリーズでもニューヨーク・ヤンキースに4連勝して2年連続のワールドチャンピオンとなった。当時のレッズはピート・ローズジョー・モーガンジョニー・ベンチジョージ・フォスタートニー・ペレスデーブ・コンセプシオンといったスター選手を揃え、「Big Red Machine(ビッグレッドマシン)」の異名をとる最強チームであった。

1977年1978年は2年連続で地区2位に終わる。1978年秋にはレッズが単独チームとして来日する。主な対戦相手である巨人の監督だった長嶋茂雄とも親しくなった。日本各地で強さを見せつけて帰国したが、帰国直後に突如解任された。
タイガース時代

レッズの監督を電撃解任されて約半年後、1979年6月14日にデトロイト・タイガースの監督に就任。タイガースを優勝争いができるチームにし、1983年はオリオールズに次ぐ地区2位と順調に力をつけた。そして1984年、シーズン最初の40試合で35勝(MLB記録)をあげ、104勝58敗で地区優勝、プレーオフでもカンザスシティ・ロイヤルズに3戦全勝してリーグ優勝を果たす。1984年のワールドシリーズの対戦相手・パドレスの監督は、1972年・73年にアスレチックスの監督としてワールドシリーズを制し、しかも1972年にはアンダーソン自身が敗れた相手のディック・ウィリアムズであった。このシリーズはどちらが勝っても「史上初の両リーグでのワールド・チャンピオン監督誕生」となるシリーズだったが、タイガースがパドレスを4勝1敗で下し、アンダーソンは両リーグでのワールドチャンピオンを獲得した史上最初の監督となった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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