スパルタクス団蜂起(スパルタクスだんほうき、独: Spartakusaufstand)または1月蜂起(Januaraufstand)は、1919年1月5日から1月12日にかけてスパルタクス団と呼ばれる共産主義者によって主導された、ドイツ・ワイマール共和国政府に対する武装蜂起事件である[1]。 帝国崩壊後のドイツの統治は「人民の代理委員会」(Rat der Volksbeauftragten 1919年1月5日、USPDの党員で唯一要職にあったベルリンの警察長官エミール・アイヒホルン(de USPDとKPDの指導者は、まもなく労働者の運動を支持することを決定した。1月7日にこの週末にベルリンの下町に押し寄せた人々は、5万人に上るゼネストに発展した。しかし次の二日間でストの指導者、いわゆる『革命委員会』は続行方法を決定できなかった。武装闘争を主張する人がいれば、エーベルトとの対話を求める者がいた。いつ暴徒化するかしれない労働者達も武装したままビル街に居座っていた。 共産党の内部でさえ方針に対する意見の一致は見られなかった。ローザ・ルクセンブルクと違いカール・リープクネヒトはKPDがエーベルト政府打倒を計画する労働者階級と疎遠になることをおそれ、闘争を支持した。同時にKPD指導者数人がベルリンに駐屯する連隊、特に人民海兵団を自分達の側に引き寄せようとした。共産党は自らの武力を高めることで市街戦を防げると考えていた。しかし殆どの兵士が既に帰宅したり『人民の代理委員会』に忠誠を誓ったために失敗に終わった。
経緯
背景
発端
革命委員会
鎮圧政府軍に射殺された革命軍兵士(1919年3月)ミース・ファン・デル・ローエが設計したスパルタクス団蜂起の記念碑(Revolutionsdenkmal
1月6日、エーベルトは国防大臣グスタフ・ノスケに最高指揮権を与え、武力鎮圧を決した。ノスケは『ドイツ義勇軍(フライコール)』の武力を用い、デモを鎮圧することを決めた。労働者は『Vorwarts』により発行される「Die Stunde der Abrechnung naht!」(決着の時が近付く!)と題するビラでこの事を知った。1月8日、USPDの右派がエーベルトと『革命委員会』の対話を仲介した。しかし交渉は決裂し、KPDは『革命委員会』を去った。その時『革命委員会』はSPDとの対話を止めた。スパルタクス団はその時党員に武装闘争に参加するよう求めた。しかし労働者の多くはスパルタクス団の計画性のなさに嫌気がさして帰宅していった[1]。
同じ日、エーベルトはドイツ義勇軍に労働者への攻撃を命じた。義勇軍に参加していた元兵士らは依然として第一次世界大戦からの武装をしており、恐るべき優位に立っていた。彼らは労働者が占拠していた通りや建物を急速に奪還した。労働者の多くが降伏し、また多くの労働者が射殺された。数知れない市民もこの戦闘の巻き添えとなり死亡した。1月15日、リープクネヒトとルクセンブルクはドイツ義勇軍に捕らえられ、殺された。
出典^ a b c d “The Spartacist Revolt” (英語). BBC. 2015年12月15日閲覧。
参考資料
林健太郎『ワイマル共和国―ヒトラーを出現させたもの』(中公新書)ISBN 978-4121000279
関連項目
Class_struggle#Chronology
外部リンク
⇒The Battle for Berlin 1918-1919
典拠管理データベース: 国立図書館
ドイツ