スパイ小説
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スパイ小説(スパイしょうせつ)は、スパイ活動をテーマとする小説(フィクション)のジャンルである。英語では「Spy fiction」(スパイ・フィクション、 短縮して「Spy-fi」) 、 「political thriller」(ポリティカル・スリラー)、「spy thriller」(スパイ・スリラー)、フランス語では「Roman d'espionnage」(ロマン・エスピオナージュ)などと呼ばれる。
スパイ小説の歴史
第一次世界大戦前

スパイに対する一般の人々の関心が高まった契機はドレフュス事件1894年 - 1906年)だった。スパイ・逆スパイの作戦を内に含んだこの事件は、ヨーロッパ主要国の政治の舞台の中心にあり、そのニュースは世界中に広く絶え間なく報じられた。ドイツ情報部の特務員たちがフランス軍内部にスパイを潜入させ、重要軍事機密を手に入れていたが、フランス軍情報部は掃除婦[注 1] にパリのドイツ駐在武官のくずかごからその証拠を捜し出させたという話に想を得て、それに類似した架空の話が作られた。

第一次世界大戦以前の最初期のスパイ小説には、以下のような作品がある。

ジェイムズ・フェニモア・クーパー『スパイ(The Spy)』(1821年)ならびに『The Bravo』(1831年)

ラドヤード・キップリング『少年キム(Kim)』(1901年) - アフガニスタンを中心にヨーロッパアジアの「グレート・ゲーム」に基づく。

ロバート・アースキン・チルダーズ(Robert Erskine Childers)『砂州の謎(The Riddle of the Sands)』(1903年)

バロネス・オルツィ紅はこべ』(1905年) - フランス革命期、フランス人貴族を救おうとイギリス人貴族たちの秘密の英雄的行為が語られる。

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ(Joseph Balsamo)』(1846年) - カリオストロ(本名ジュゼッペ・バルサモ)による王妃の首飾り事件を扱っている。

スタンダールパルムの僧院』(1839年)

オノレ・ド・バルザック『暗黒事件(Une tenebreuse affaire)』(1843年)、『娼婦盛衰記(Splendeurs et miseres des courtisanes)』(1838年 - 1847年)

アーサー・コナン・ドイルの創造したシャーロック・ホームズは、一般に推理小説(探偵小説)の主人公と見なされがちだが、シャーロック・ホームズシリーズのいくつかの作品はスパイ小説である。『海軍条約文書事件』(1893年)、『第二の汚点』(1904年)、『ブルースパーティントン設計書』(1912年)のホームズは外国のスパイからイギリスの重大機密を守り、『最後の挨拶』(1917年)では第一次世界大戦前夜、自ら二重スパイ(Double agent)になり、ドイツに嘘の情報を与えている。

ジョゼフ・コンラッドの『密偵(The Secret Agent)』(1907年)は、スパイ活動とその結果を、個人的にも社会的にもよりシリアスに見つめている。革命家グループの綿密な調査と、グリニッジ天文台爆破を企むテロリストの陰謀がそこには描かれ、一連の個人的な悲劇で終わる。

この時期、最も読まれたスパイ小説家というと、ウィリアム・ル・キュー(William Le Queux)である。文体は月並みで古臭かったが、第一次世界大戦前のイギリスでは売れっ子だった。ル・キューに続くのがエドワード・オッペンハイムで、1900年から1914年にかけて、この2人で数百冊のスパイ小説が書かれたが、物語は紋切り型で文学的価値はまったく認められなかった。
第一次世界大戦

第一次世界大戦中の傑出したスパイ小説家は、熟練した宣伝機関の一員ジョン・バカン(John Buchan)だった。バカンは戦争を文明と未開の対立として描いた。バカンの作品で最も知られているのが、リチャード・ハネイ(Richard Hannay)が活躍する『三十九階段』(1915年)や『緑のマント(Greenmantle)』(1916年)などで、バカンの小説は今でも刊行され続けている。(なお、アルフレッド・ヒッチコックの映画『三十九夜(原題:The 39 Steps)』(1935年)は筋ではなく、題名だけ使ったもの)。

フランスでは、ガストン・ルルーがスパイ・スリラーを書いた。その中には、探偵ジョセフ・ルールタビーユ(Joseph Rouletabille)シリーズの『都市覆滅機(Rouletabille chez Krupp)』(1917年)も含まれる。モーリス・ルブランも『オルヌカン城の謎』(1915年)(アルセーヌ・ルパン・シリーズ)を書いた。
第二次世界大戦前

第二次世界大戦を迎えるまでに、スパイ小説の形式の力強さと融通性が明らかになっていった。たとえば、サマセット・モームのような退役した情報部員による小説が現れた。モームの『アシェンデン』(1928年)では、第一次世界大戦のスパイが生々しく描かれた。やはり元情報部員のコンプトン・マッケンジー(Compton Mackenzie)はスパイ風刺コメディを最初に成功させた。

エリック・アンブラーはスパイ活動に巻き込まれる普通の人々を描いた。『暗い国境(The Dark Frontier)』(1936年)、『恐怖の背景(Uncommon Danger, アメリカ版タイトル:Background to Danger)』(1937年)、『あるスパイへの墓碑銘(Epitaph for a Spy)』(1938年)などである。これまでスパイ小説は右翼的な傾向にあったが、アンブラーはそこに左翼的な視点を取り入れたのが特徴で、それはある人々には衝撃的だった。具体的に、アンブラーの初期の作品のいくつかはソビエト連邦のスパイを(主人公ではなかったが)肯定的なヒーローとして描いた。

女流推理小説家として知られるアガサ・クリスティは、第2次世界大戦終戦まで、ドイツのスパイとの対決する冒険小説を「トミーとタペンス」ものを中心として書いている(『秘密機関』『NかMか』)。終戦後は敵はKGBに変更され、『複数の時計』では、エルキュール・ポアロが、殺人事件を解決する過程で、図らずもソ連スパイ網を暴く。

フランスでは、ピエール・ノール(Pierre Nord)が『Double crime sur la ligne Maginot(マジノ線の二重犯罪)』(1936年)を発表した。この作品は近代フランス・エスピオナージュ小説の最初の作品と考えられている。
第二次世界大戦

第二次世界大戦が始まった1939年グラスゴー出身のヘレン・マッキネスが『Above Suspicion』を発表した(アメリカでの出版は1941年)。マッキネスにとっては以後45年にわたる作家活動の始まりだった。批評家は、現代史を背景としたマッキネスの巧みさ、畳みかける展開、入り組んだプロットを絶賛した。マッキネスの作品には他に『Assignment in Britanny』(1942年)、『Decision at Delphi』(1961年)、『Ride a Pale Horse』(1984年)などがある。

1940年、イギリスの作家マニング・コールズ(Manning Coles)[注 2] が『昨日への乾杯(Drink to Yesterday)』を発表した。これは、トマス・エルフィンストン・ハンブルドン(Thomas Elphinstone Hambledon)シリーズの第1作で、第一次世界大戦を舞台とした非情な物語だった。第2作『Pray Silence』(1941年)は深刻な事件にかかわらず明るいトーンを持っていた。戦後のハンブルドンものは紋切り型になって、批評家の興味も失われた。
冷戦

第二次世界大戦に引き続いて起こった冷戦はスパイ小説を強く刺激した。

大国間(資本主義陣営 vs.共産主義陣営)の核抑止力による実戦を伴わない駆け引き(情報戦)が、現実の世界にスパイと呼ばれる情報機関員を暗躍させ、フィクションの世界にも多くのスパイエージェントが登場することとなったのである。
イギリス

1950年代初期、デズモンド・コーリイ(Desmond Cory)は架空の「殺しのライセンス」を持ったスパイ(ジョニー・フェドラ Johnny Fedora)を登場させた。

グレアム・グリーンイギリス情報局秘密情報部での実体験から、東南アジアが舞台の『おとなしいアメリカ人(The Quiet American)』(1955年)、ベルギー領コンゴが舞台の『燃えつきた人間(A Burnt-out Case)』(1961年)、ハイチが舞台の『喜劇役者(The Comedians))』(1966年)、パラグアイの国境に近いアルゼンチンの町コリエンテス(Corrientes)が舞台の『名誉領事(The Honorary Consul)』(1973年)、ロンドンのスパイを描いた『ヒューマン・ファクター』(1978年)など、多数の左翼的・反帝国主義的スパイ小説を生み出した。


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