スパイク・リー
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スパイク・リー
Spike Lee
2018年
本名Shelton Jackson Lee
生年月日 (1957-03-20) 1957年3月20日(67歳)
出生地 アメリカ合衆国 ジョージア州アトランタ
配偶者トーニャ・ルイス(1993年 - )
主な作品
ドゥ・ザ・ライト・シング
モ'・ベター・ブルース
ジャングル・フィーバー
マルコムX
ラストゲーム
25時
インサイド・マン
ブラック・クランズマン

 受賞
アカデミー賞
脚色賞
2018年ブラック・クランズマン
名誉賞
2015年
カンヌ国際映画祭
グランプリ
2018年『ブラック・クランズマン』
ユース賞
1986年『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』
ヴェネツィア国際映画祭
国際映画批評家連盟賞
2006年『堤防が決壊した時』
監督・ばんざい!賞
2012年『BAD 25』
ニューヨーク映画批評家協会賞
特別賞
2020年『New York New York』
ロサンゼルス映画批評家協会賞
監督賞
1989年ドゥ・ザ・ライト・シング
ニュー・ジェネレーション賞
1986年『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』
放送映画批評家協会賞
ドキュメンタリー賞
1997年『4 Little Girls』
アクション映画賞
2020年ザ・ファイブ・ブラッズ
英国アカデミー賞
脚色賞
2018年『ブラッククランズマン』
エミー賞
ノンフィクション番組監督賞
2007年『堤防が決壊した時』
ノンフィクション番組個人業績賞
2007年『堤防が決壊した時』
セザール賞
名誉賞
2003年
その他の賞

備考
第74回カンヌ国際映画祭 審査委員長(2021年)
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“スパイク”シェルトン・ジャクソン・リー(Shelton Jackson "Spike" Lee、1957年3月20日 - )はアメリカ合衆国映画監督プロデューサーである。
概要

アフリカ系アメリカ人がアメリカ社会で直面する、人種差別偏見を正面から取り上げる作品で知られ、そのうち『ドゥ・ザ・ライト・シング』など4作品がアメリカ議会図書館においてアメリカ国立フィルム登録簿に永久登録されている[1]。現在ニューヨーク大学映画学科の教授として映画製作を指導しているほか[2]母校であるモアハウス大学でも時折教壇に立っている。彼が設立した映画制作会社40エーカー・アンド・ア・ミュール・フィルムワークス(英語版)は1983年以来35本の映画を公開している。
経歴

ジョージア州アトランタで、ジャズ・ミュージシャンである父ウィリアム・ジェームス・エドワーズ・リー三世、通称ビル・リー教師であると同時に作家でもある母ジャクリーン・シェルトンの間に生まれた。幼い頃に家族でニューヨークブルックリンに転居している。リーは幼少期に母親に「スパイク」というあだ名をつけられた。ジャズ・ベーシストの父ビルは、スパイク・リーのいくつかの作品で音楽を担当している。スパイク・リーと盟友関係を築く事になるデンゼル・ワシントン主演のジャズ映画『モ'・ベター・ブルース』があり、ビル・リーは終盤の結婚式のシーンで花嫁の父親役として出演もしている。花嫁役のインディゴ・ダウンズを演じるジョイ・リーはビル・リーの娘でありスパイクの実妹である。 母方の祖母ジミー・シェルトンは1929年に名門女子大学のスペルマン・カレッジを卒業している。1986年に初の長編映画『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を製作する時、ジミー・シェルトンは資金面で全面的に援助した。スパイクは、ブルックリンのジョン・デウェイ高校に通った後、最初の作品『ラスト・ハッスル・イン・ブルックリン』を製作した頃には、アトランタのモアハウス大学で学んでいた。彼はクラーク・アトランタ大学でも映画のコースを取り、モアハウス・カレッジでマスコミ学士学位を取得した。その後ニューヨークに戻り、ニューヨーク大学のティッチ・スクール・オブ・アートに入学し、1982年ファインアーツ修士を得て修了している。

彼が大学院修了課題のために製作した映画は『ジョーズ・バーバー・ショップ』で、学生が製作した映画として初めてリンカーン・センターでのニュー・ディレクター・ニュー・フィルム・フェスティバルに出品された。この映画は全米の大学生・大学院生を対象にした学生アカデミー賞でも大賞を受賞している。1985年、スパイク・リーは初めての商業映画に挑戦した。『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』は予算16万ドルで製作され公開期間はわずかに2週間という悪条件にもかかわらず、翌1986年に公開された時には700万ドルを超える興行成績を残し、スパイクの知名度は上昇した[3][4]。1988年には『スクール・デイズ』を制作し、この作品からはサウンドトラックも注目されるようになった[5]

1989年にヒット作『ドゥ・ザ・ライト・シング』を発表し、黒人監督としての地位を確立させる[6]。本作では人種間の関係や、都市部の犯罪と貧困を描いており、黒人だけではなく、アジア人やイタリア系にも焦点を当てて怒りを表明した。人種差別を描いた映画として激賞され、アカデミー脚本賞にノミネートされるものの、「アカデミー作品賞にはノミネートされず」、それが問題として論争の的となった。


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