スバル・1500
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スバル1500
スバル1500(P-1)
概要
設計統括百瀬晋六
ボディ
乗車定員6人[1]
ボディタイプ4ドアノッチバックセダン
駆動方式後輪駆動
パワートレイン
エンジンFG4A型 1,484cc 水冷直4 OHV 48PS/10.0kgm[1]
L4-1型 1,485.4cc 水冷直4 OHV 55PS/11.0kgm[1]
変速機コラム式3速MT
前フロント ウィッシュボーン式独立懸架[1]
リア リーフ式車軸懸架[1]
後フロント ウィッシュボーン式独立懸架[1]
リア リーフ式車軸懸架[1]
車両寸法
全長4,235mm[1]
全幅1,670mm[1]
全高1,520mm[1]
車両重量1,230kg(FG4A搭載型)[1]
1,178kg(L4-1搭載型)[1]
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スバル1500(SUBARU 1500)は、富士重工業(現・SUBARU)が試作開発した小型自動車。

1954年に最初の試作車が完成。富士重工業最初の乗用車であり、日本で初めてフル・モノコック構造の車体を採用した画期的な存在であった[2]が、僅かな台数が試作されたに留まり、諸事情から量産・市販されなかった。開発時のコードネームはP-1。
概要

4ドア6人乗りのノッチバックセダン型小型乗用車。外見的にもスペースを有効活用したポンツーン・スタイルを用いた近代的デザインを備えていた(1950年発売のフォード・コンサルの影響が強いとされる)[3]が、重要な点として軽量化のために日本の乗用車では初めて、世界でも早い時期のフル・モノコック構造を採用していた。

前輪はウィッシュボーン式独立懸架方式でコイルばね+複動式オイルダンパー支持、後輪は車軸懸架方式で、フリクションの少ない3枚板ばね(リーフスプリング)と複動式オイルダンパーを組み合わせたサスペンションを採用。乗り心地は好評で、ボディ・足回りの耐久性は同時期の他の日本製乗用車より秀でていたという。

駆動系統は、1.5L級の水冷直列4気筒OHVエンジンをフロントに搭載し、プロペラシャフトを介して後輪を駆動する、開発当時における一般的手法が用いられた。

愛称は当初社内募集だったが、「パンサー」「フェニックス」「坂東太郎」など、親しみを持ちにくい外国語案や自動車としては奇異な名称が集まり、全て却下された[4]

結局富士重工業初代社長の北謙治が、旧・中島飛行機系企業5社とそれらの合同で成立した富士重工業を昴星(プレアデス星団)の六連星になぞらえ、自ら「スバル」と命名した[5]。「スバル」の名称を使用した最初の自動車である[注 1]
開発の経緯
試作車の製作まで

旧・中島飛行機を前身とする企業の一つで、群馬県伊勢崎市に本拠を置き、バスボディ生産を主力事業としていた富士自動車工業での社内プロジェクトが起源である。

1950年(昭和25年)、富士自動車工業専務取締役の松林敏夫は、普通乗用車開発を企画した。伊勢崎でのバスボディ生産は好調だったが、当時の日本のバスボディ市場は過当競争状態でパイが限られ、将来的にこれに頼り切ることは好ましくないと考えられたからである。石油供給の好転や朝鮮戦争による特需景気朝鮮特需)も新たな事業拡張の好機と考えられた。

1951年(昭和26年)1月、富士自動車工業の設計係長であった百瀬晋六は松林から乗用車開発を命じられた。百瀬は長野県塩尻市出身で戦時中に東京帝国大学(現・東京大学)工学部を卒業して中島飛行機に入社、航空エンジン用の排気タービン過給器ターボチャージャー)開発に取り組んだ経歴もあったが、戦後伊勢崎工場所属となり、専らバスボディの設計に当たっていた。

百瀬はバスボディ設計の傍ら、文献を写真複写する写真家を伴って、GHQが運営する東京日比谷CIE図書館に幾度も通った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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