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スバル・1000
A12/512/522型
4ドアセダン(最初期型)
2ドアセダン
4ドアバン
概要
販売期間1966年 - 1969年
設計統括百瀬晋六
ボディ
乗車定員5人
ボディタイプ2ドア/4ドア セダン
2ドア/4ドア ライトバン
(日本市場のみ)
2ドア/4ドア ステーションワゴン
(日本市場以外)
駆動方式前輪駆動
パワートレイン
エンジンEA52型 977 cc 水平対向4気筒
最高出力55 ps @ 6,000 rpm
車両寸法
全長3,930 mm
全幅1,480 mm
全高1,390 mm
車両重量695 kg
その他
1968年12月までの累計生産台数8万327台[1]
系譜
先代スバル・450(事実上)
後継スバル・ff-1
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スバル・1000は富士重工業(現・SUBARU)が開発し、1966年から1969年まで生産していた同社初の量産小型乗用車である。 1966年5月に富士重工業初の小型車として発売された。モータリゼーション時代に求められる直進安定性、ゆとりある室内空間といった理想を追求し、フロントエンジン・前輪駆動 (FF)、水平対向エンジン、センターピボット式ステアリングなどを採用した意欲的かつ挑戦的な車両で、その機構や基本性能は当時のライバル車と大幅に異なっていた。「1,500 ccクラス並み」と謳われた室内有用性を生む優れた基本骨格や、かつての航空機製造技術に基づいた独特かつ合理的な工学は、後に「スバリスト」と呼ばれる熱狂的なスバル愛好家を生むきっかけとなった。 開発の総指揮はスバル・360(登録車版のスバル・450を含む)に引き続き、百瀬晋六が担当した。 スバル・360で自動車産業への進出に成功した富士重工業は、小型車市場への進出を狙い、P-1(スバル・1500の開発コード名)計画中止以後も社内で検討を重ねていた。その成果は、1960年に、開発コード「A-5」と呼ばれる、1,500 cc空冷4ストローク水平対向4気筒OHC、クリフカット[注釈 1]の特徴的な外装デザインを持つ小型車に具現化し、フロントエンジン・前輪駆動 (FF) 方式、フロント: コイル/ウィッシュボーン、リヤ: コイル/トレーリングアームのサスペンション形式、サッシュレスウィンドウなど、のちのスバル・1000や富士重工業製の小型車に引き継がれる意欲的な技術の雛形が、この「A-5」計画で初めて提示され、1963年2月にその試作車が完成した。しかし、P-1計画と同じく、当時の富士重工業の企業規模ではトヨタ自動車や日産自動車などの先行他社に、1,500 ccクラスでは太刀打ちできないと判断され、生産化に至らなかった。 「A-5」計画中止後、新たに「A-4」と呼ばれる「A-5」より一回り小さい小型車の計画が開始し、排気量800 cc程度、全長3,500 mm、全幅1,400 mm、車両重量500 kg、価格40万円以下を目標に検討が開始された。 1963年、「A-4」計画は、排気量923 cc、FF方式、全長3,885 mm、全幅1,400 mm、ホイールベース2,400 mm、トレッド(輪距): 前輪1,230 mm、後輪1,220 mm、車両重量650 kgという具体的な基本骨格が決定され、「63-A」として商品化に向けた開発に移った。この「63-A」計画が、富士重工業初の小型車「スバル・1000」として世に出ることになる。 開発に当たって、空間効率と、静粛性、振動には特に留意され、早期から水冷4ストローク水平対向エンジンとトランスミッションを縦置きとして、等長のドライブシャフトを用いたFF方式という基本骨格を核に開発を進める事が決定された。 その基本機構を「A-5」を下地としながらも、エンジンの弁機構をOHCから現実的なOHVに改め、サスペンションのばねにはスバル・360と同じくトーションバー(ねじり棒ばね)を採用することによる空間効率と経費削減の両立、急坂登坂などFF方式の難点だったトラクション確保と軽量な車重の両立のために、スペアタイヤ、ジャッキ等の工具類までエンジン室に収納し、フロントに全車重の60%程度の荷重を集中させることや、パワー損失がなく静粛性に優れた「デュアルラジエーター」の開発、さらに、完全なフラット・フロアの実現のために、排気管を助手席側サイドシルに配置するなど、スバル・1000の特徴となる、非常に合理的で独創的な機構の数々が徐々に形成されていった。
概要
開発