ストーンズリバーの戦い
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ストーンズリバーの戦い
Battle of Stones River
南北戦争

ストーンズリバーの戦いで兵士を鼓舞するローズクランズ将軍(左端)、1891年画.

1862年12月31日 - 1863年1月2日
場所テネシー州マーフリーズバラ
結果戦術的に引き分け
戦略的に北軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
ウィリアム・ローズクランズブラクストン・ブラッグ
戦力
43,40037,712
被害者数
13,249 (戦死 1,730
負傷 7,802
捕虜・不明 3,717)10,266 (戦死 1,294
負傷 7,945
捕虜・不明 1,027)

ストーンズリバーの戦い(ストーンズリバーのたたかい、英:Battle of Stones River、あるいは第二次マーフリーズボロの戦い、英:Second Battle of Murfreesboro、南部では単にマーフリーズボロの戦い、英:Battle of Murfreesboro)は、南北戦争西部戦線における「ストーンズリバー方面作戦」の頂点として、中部テネシー州1862年12月31日から1863年1月2日に行われた戦闘である。南北戦争の主要戦闘の中でも両軍とも最高の損失率となった。戦闘自体は引き分けだったが、北軍が2度にわたる南軍の攻撃を撃退し、その後に南軍が撤退したことで、東部戦線におけるフレデリックスバーグの戦いでの敗北後沈滞していた北軍の士気を大いに上げ、南軍の中部テネシー州支配という願望を打ち砕いた。
ストーンズリバー方面作戦

南軍の将軍ブラクストン・ブラッグのミシシッピ軍は1862年10月8日ペリービルの戦いで敗北した後、ケンタッキー州ハロッズバーグまで撤退し、10月10日エドマンド・カービー・スミス少将の軍隊10,000名と合流した。ブラッグ軍は38,000名の古参兵からなる軍隊となったが、主導権を取り戻す動きは起こさなかった。ペリービルでの勝者ドン・カルロス・ビューエル少将は同じくらい受動的であり、ブラッグを攻撃することを拒んだ。

不満が募ったブラッグはカンバーランド渓谷を通って撤退し、ノックスビルチャタヌーガを通過して北西に転じ、最終的にテネシー州マーフリーズボロで停止した。スミスのケンタッキー軍と合流して11月20日付けでテネシー軍と改名していたその軍隊は、市の北西でストーンズ川西支流に沿って防御的陣地を布いた。ここを12月16日アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスが訪れた時、ブラッグはビックスバーグ防衛を助けるためにカーター・L・スティーブンソン少将の歩兵師団をミシシッピ州に派遣するよう命令を受けた。ブラッグはその軍隊を再編し、スミスは東テネシー州に去った。ブラッグはウィリアム・J・ハーディおよびレオニダス・ポーク各少将の2個軍団とジョセフ・ウィーラー准将の騎兵隊を指揮した。ネイサン・ベッドフォード・フォレストジョン・ハント・モーガンの両名が中部テネシー州の外へ戦略的襲撃のために派遣されていたので、若いウィーラーの指揮では騎兵の戦力や熟練度がかなり弱まっていた。ブラッグにはもう一つ困った問題があった。部下の中で上級の将軍達がジェファーソン・デイヴィスにブラッグの解任(西部戦線の全軍指揮官ジョセフ・ジョンストン将軍を支持した)を願い出るという事実上の反乱だった。デイヴィスはブラッグと反乱を起こした将軍達ともに解任を拒んだ。

北軍側では、エイブラハム・リンカーン大統領がビューエルの受動性に不満を募らせ、最近イウカの戦い第二次コリンスの戦いで勝利を上げたウィリアム・ローズクランズ少将に指揮官をすげ替えた。ローズクランズはその第14軍団(間もなくカンバーランド軍と改称された)をナッシュビルに動かし、ワシントンからは、もし彼がブラッグに対して攻撃的に動かずテネシー州東部を占領しなければ、彼もまた解任されると警告を受けた。しかし、ローズクランズはその軍隊を再編し訓練(特に騎兵)するために十分な時間を取り、さらに補給もした。12月26日になってやっとブラッグ軍追求のための行軍を始めた。

ローズクランズがナッシュビルで準備を進める間、ブラッグはジョン・ハント・モーガン大佐にその騎兵隊と共に北に移動し、ローズクランズの通信線で活動し、ローズクランズがナッシュビルの北から食料調達するのを妨げるよう命令した。(マーフリーズボロの北にある)ナッシュビルからカンバーランド川上流約40マイル (64 km)にある渡渉点で起こったハーツビルの戦いは、ローズクランズがその歩兵軍に大挙して行動を起こさせる前に、北方のモーガン隊による襲撃中の出来事だった。モーガン隊の急襲に続く比較的小さな戦闘は、北軍にとって厄介な敗北となり、北軍は多くの物資や兵士を捕獲された。北軍もまた戦略的な騎兵襲撃を行わせた。ローズクランズ軍がナッシュビルを発った12月26日、サミュエル・P・カーター准将の小さな部隊がケンタッキー州マンチェスターからテネシー渓谷上流を襲った。翌年1月5日までカーター隊は鉄道橋を破壊し、12月28日のパーキンスミル(エルクフォートとも呼ばれる)での重大な戦闘を含め幾つかの小競り合いを演じた。しかし、北軍にしても南軍にしても、騎兵隊の襲撃でストーンズリバー方面作戦に大きな影響を与えることは無かった。

カンバーランド軍はクリスマスの翌日に3隊、あるいは3「翼」で南東のマーフリーズボロに向けて進発したが、途中で南軍ウィーラーの騎兵隊に効果的な嫌がらせを受け、その速度が遅くなった。ローズクランズはナッシュビルで有効兵力を総勢81,729名と報告していたが、南軍騎兵隊の嫌がらせからその基地や供給線を守る必要性があったので、進発した軍は総勢の半分をやっと超えたくらいだった。トマス・L・クリッテンデン少将の左翼14,500名は、ナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道に並行する道を採り、ラ・ヴェルニュとスミルナの南を通過した。中央翼はアレクサンダー・マクック少将の16,000名であり、ノーレンズビル・ターンパイクに沿って南にノーレンズビルまで降り、トライユーヌの南に出て東のマーフリーズボロに向かった。右翼のジョージ・ヘンリー・トーマス少将の13,500名はナッシュビル・アンド・ディケーター道路に並行するウィルソン・ターンパイクとフランクリン・ターンパイクに沿って進み、続いて東にノーレンズビルを抜け、クリッテンデン翼が通ったのと同じナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道の南を進んだ。翼を分けたのはトライユーヌのハーディ隊に対して転回運動を起こすことを意図したものだったが、北軍が動き始めた時にブラッグは対決を避けるためにハーディ隊をマーフリーズボロに戻らせた。
マーフリーズボロおよび戦闘の作戦杉林の中の石灰岩の露頭、ストーンズ川国定戦場跡、2005年撮影

マーフリーズボロはストーンズ川渓谷の小さな町であり、元はアメリカ独立戦争時の大佐ハーディ・マーフリーに因んで名付けられた州都だった。南北戦争を通じて強い南軍寄りの感情の中心であり、ブラッグとその軍隊は暖かく迎えられ、12月1ヶ月間歓待された。豊かな農業地帯に位置しており、ブラッグはここで軍隊の食料を調達し、北軍がチャタヌーガに進行する可能性があるのをここで塞ごうと考えていた。ハーディは後に「戦場は守る側にとって特に利点はなかった」と記した。それでもブラッグは別に動くことを躊躇し、例えば南のより守りに適したダック川渓谷や、北のスチュワート・クリークにも行かなかった。スチュワート・クリークについてはローズクランズがブラッグの守る場所だと考えていた。ブラッグは、テネシーの土地をどこも北軍の支配下に置いてはいけないという政治的要求に敏感であり、ストーンズ川に跨る政治的影響力のある町の北西、比較的平らな地域を選んだ。この地域の一部、特にナッシュビル・パイク道路とナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道が交差する点近くは、丈は低いが濃密な杉林が特徴となっており、バージニア州荒野の戦いよりも歩兵が通過しにくい場所となっていた。低い石灰岩の露頭が歯並びのような細い亀裂で分かれており荷馬車や大砲の移動には障害となった。ハーディ軍団は当初、西方約20マイル (32 km)のトライユーヌに配置され、ポーク軍団は川の西岸に、ハーディ軍団のうちジョン・ブレッキンリッジ少将の指揮する分遣師団が川の東にある低い丘に配された。どの部隊も野戦防塞を造るよう命令されなかった。

12月29日の夜にローズクランズがマーフリーズボロに到着した時までに、テネシー軍は1ヶ月間もその地域に宿営していた。夜陰の中でローズクランズ軍はナッシュビル・ターンパイクに沿って配置を終え、翌朝、ローズクランズ軍は総勢約45,000名、対するブラッグ軍は総勢約38,000名となった。勝敗の可能性はその数字が示すよりも接近していた。ブラッグには分遣しているが協働行動を取りながら北軍の戦線の背後深く襲撃しているフォレストとモーガンの騎兵隊がおり、またウィーラーの騎兵隊はヒット・アンド・ラン戦法で北軍の歩みを遅らせるという利点があった(ローズクランズがナッシュビルを離れることを躊躇したことの要因の一部は、南軍の騎兵隊に比較してその騎兵隊の経験が不足していることがあった)。12月29日、ウィーラーとその2,500名の部隊は北軍の背後に完全に回り込み、物資用荷馬車を破壊し、ローズクランズ輜重隊の予備弾薬を捕獲した。


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