ステージ101
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Venue101」とは異なります。

ステージ101
Stage 101
ジャンル音楽番組
出演者.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

関口宏 (1970年1月10日 - 1970年9月26日)

黒柳徹子 (1970年10月10日 - 1971年9月22日)

マイク真木前田美波里(1971年10月6日 - 1972年3月29日)

ヤング101

ダンサーズ101

上條恒彦

中村八大

和田昭治

ほか、ゲスト多数

オープニングステージ101テーマソング「ヤッポン!」(1970年1月10日 - 1973年4月1日)
ステージ101 テーマ'73(1973年4月8日 - 1974年3月31日)
製作
プロデューサー末盛憲彦 (1970年1月10日 - 1972年3月29日)
林叡作(1972年4月 - 1973年3月)
制作NHK総合テレビジョン

放送
放送国・地域
放送期間1970年1月10日 - 1974年3月31日
放送時間毎週土曜日 20:00 - 21:00 (1970年1月10日 - 1971年4月3日)

毎週水曜日 20:00 - 20:45(1971年4月7日 - 1972年3月29日)
毎週日曜日 19:20 - 20:00(1972年4月9日 - 1973年4月1日)
毎週日曜日 18:00 - 18:40(1973年4月8日 - 1974年3月31日)
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『ステージ101』(ステージいちまるいち)は、1970年1月10日から1974年3月31日までNHK総合テレビジョンで放送された音楽番組である。
概要

この番組は、1960年代に全世界を覆った学園紛争の嵐で傷ついた若者の心を癒し良質の音楽を紹介しようという意図で企画された、NHK初の若者向け音楽番組である。番組名は、当時東洋一の広さを誇った[注 1]渋谷のNHK放送センターCT-101スタジオで収録されていたことに由来する[注 2]

約40名のメンバーからなるレギュラー出演グループの「ヤング101」の躍動感溢れる歌と踊りを中心にして、国内のメジャーからマイナーまで幅広い音楽や海外のポピュラー音楽、さらに「ヤング101の歌」などの番組オリジナルソングを披露した。

オイルショックによる製作費の予算の削減などの影響を受けて番組は4年3か月で終了したが、NHKがその後放送した様々な若者向け音楽番組の先駆けとなった。番組オリジナル曲の「涙をこえて」や「怪獣のバラード」は50年間に渡って広く歌われ続け[注 3]、合唱コンクールで取り上げられることも多い。

ヤング101は既にレコード・デビューしていたグループや歌手から無名の新人に至るまで、多彩な顔触れが集められて結成された。合計88名の歴代メンバーは厳しい指導を受けて高度の実力を身につけて、ヤング101を卒業した後は多くが音楽や演劇のプロフェッショナルとなった。
歴史
草創

1961年4月からNHK総合テレビジョンのバラエティー番組『夢であいましょう』の演出に携わったNHKディレクター末盛憲彦は、1965年10月から1966年3月までアメリカに滞在して様々なショー番組やミュージカルバラエティ番組を視聴して、そのスタイルを日本に輸入したいと考えた。末盛が特に感銘を受けたのは、大人数の若者のグループ「ヤング・アメリカンズ」が歌い踊る姿であった。帰国した彼は、道徳再武装(Moral Re-Armament)の日本支部が組織したレッツ・ゴー[注 4]が大人数のメンバーでフォーク・ソングを歌う[1]のを見て、ヤング・アメリカンズのような日本人グループが歌い踊るショー形式の音楽番組を作ることをNHKに提案した。

末森の提案が受け入れられて、1970年1月の放送開始を目標に新番組の計画が立てられ、1969年4月、レコード会社の推薦や業界内部でのオーディションに基づいたレギュラー出演グループの編成が始まった。因みにオーディションメンバーの中には荒井由実もいたが、グループよりもソロ向きとの指摘を受けメンバー入りする事はなかった。

そういった結果などから、レッツ・ゴーの出身者達によって結成されてまもないシング・アウト[注 5]が最初のメンバーに決まり、1967年に結成されたザ・バロン、元ジローズの塩見大治郎、1968年のジョーン・バエズの来日コンサートで第一部を務めた小林啓子などが加入して、6月頃にヤング101が結成された[注 6]。末盛は『夢であいましょう』と同様に中村八大音楽監督に迎え、元デューク・エイセスで作曲家の和田昭治(コーラス)、中川久美[2][注 7](ダンス)、早野寿郎(芝居)、永六輔[注 8](トーク)といった各界の実力者を講師としてヤング101に歌や踊り、芝居の厳しい指導を与え、衣装デザインに中嶋弘子[注 9]、ヘアーメイクに大関早苗を迎えて[3][4]放送開始に備えた。また司会に野沢那智白石冬美を迎えて白黒撮影のテスト版を制作し、局内のスタッフに公開した[5]

夢であいましょう』は永六輔と中村八大の共作による番組オリジナル・ソング「今月のうた」を多数生み出した[注 10]。末森らは新番組でもオリジナル・ソングの企画を取り入れようと考えて、中村が放送作家のかぜ耕士と「涙をこえて」を共作した[注 11]。この曲は放送開始前の7月25日にヤマハ音楽振興会が開催した音楽コンクール『合歓ポピュラーフェスティバル'69』でシング・アウトによって披露され、伊東ゆかりの「青空のゆくえ」と共に作曲グランプリを受賞した[6][注 12][注 13]

1969年11月3日、祝日の午後8時から番組のパイロット版としてグループのお披露目となる『特別番組 ステージ101』が放送され、司会に石井好子関口宏、ゲストに渥美清植木等三波春夫を迎え、番組内でヤング101のメンバーが紹介された。翌々日の11月5日、「涙をこえて」がシング・アウトのデビュー・シングルとして発表され[7]、21万枚を売り上げるヒットになった。12月31日の『第20回NHK紅白歌合戦』の冒頭、両軍司会者によるじゃんけん先行決めの場面でヤング101が応援役として登場。この時初めて、グループ名が公表された。翌日の1970年1月1日、元日の午後8時から再び特別番組『特別番組 ステージ101』が放送された。司会は関口宏、ゲストが水前寺清子寺尾聡であった。
成長と転換

1970年1月10日〈土)午後8時、『ステージ101』第一回が放映され、週1回のレギュラー番組がスタートした。関口宏が司会を担当し。ヤング101[注 14]とダンサーズ101[注 15]がレギュラー出演、上條恒彦がヤング101のお兄さんとして準レギュラー出演した。番組の方針として、当時の流行歌ではなくフォークソングや海外の曲、そして番組オリジナル・ソングを歌うことが徹底され、「涙をこえて」などが披露された。音楽監督の中村と和田[8]も出演し、ヤング101のコーラス指導を行なってきた和田は、メンバーがつけた「ワンツーおじさん」の愛称で視聴者にも親しまれた。

番組が始まってから、ヤング101のメンバーは週5日間を拘束され、「最初の3日間がリハーサル、翌日スタジオでランスルー、そして本番」[9]という厳しい日程が続く中でますます実力をつけていった。ヤング101は番組連動企画として活動の場をNHKの外にまで広げて、日本万国博覧会(EXPO '70、1970年3月 - 9月)や札幌冬季五輪(1972年2月)の関連イベントなどに参加した。


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