「ステンカ・ラージン」はこの項目へ転送されています。アレクサンドル・グラズノフが作曲した交響詩については「ステンカ・ラージン (グラズノフ)」をご覧ください。
スチェパン・チモフェエヴィチ・ラージン
Степан Тимофеевич Разин
生年:1630年
生地: ロシア・ツァーリ国、ジモヴェーイスカヤ
没年:1671年6月16日
没地: ロシア・ツァーリ国、モスクワ
活動:官僚機構への抵抗
所属:コサック
刑場:赤の広場
スチェパン・チモフェエヴィチ・ラージン(ロシア語: Степан Тимофеевич Разинスチパーン・チマフィェーイェヴィチュ・ラーズィン、1630年 - 1671年6月16日(旧暦では6日))は、コサックのアタマンで、モスクワ・ロシア南部において貴族とツァーリの官僚機構に対する大がかりな抵抗運動を指揮した。日本でもいわゆるロシア民謡である『ステンカ・ラージン』と共に名高い。しばしばステンカ・ラージン(露: Сте?нька Разин、英: Stenka Razin)とも呼ばれるが、「ステンカ/ステニカ」(Стенькаスチェーニカ)は「ステパン/スチェパン」(Степан)の縮小形の一つで愛称・卑称として用いられる。
目次
1 生涯
1.1 ラージンの前半生
1.2 ペルシア遠征
1.3 反乱
2 歌と映画
2.1 歌詞
2.2 ロシア語原文
2.3 日本語訳
3 脚注
生涯
ラージンの前半生(ロシア語版
ラージンに関する最も古い記録は、1661年のドン・コサックからカルムイク人への外交使節の派遣文書に見られる。同年、ラージンは白海のソロヴェツキー修道院へ巡礼の旅に出た。その後6年間というもの、ラージンの消息は途絶える。ラージンはTishina川とIlovlya川の間にある湿地帯・Panshinskoyeの盗賊団のリーダーとなって再び登場する。それ以降、ヴォルガ川を行き交う全ての船を脅して金を巻き上げた。
1654年から1667年までのポーランドとのロシア・ポーランド戦争(13年戦争)、1656年から1658年までのスウェーデンとの北方戦争はロシアの人々に重い負担を強いた。ツァーリ専制体制が確立され、徴税と徴兵が強化された。多くの農奴・小作農は南に逃れ、ラージンのコサック盗賊団の仲間になっていった。農民だけでなく下層階級の人々やカルムイク人などの非ロシア民族の人々もまたラージンの一味となった。
ラージンの名が初めて轟いたのは、財宝やモスクワの総主教や金持ちの商人の積荷を積んだ船団を撃破した時である。その後、ラージンは35隻のガレー船からなる水軍でヴォルガを下り、行く手の砦を落としていった。1668年初めアストラハンが差し向けたヴォイヴォダの軍勢を破り、さらにダゲスタンやペルシア(サファヴィー朝)に18ヶ月にわたって侵攻した。
ペルシア遠征 カスピ海を渡るスチェンカ・ラージン (ワシーリー・スリコフ)
カスピ海に乗り出したラージンは、デルベントからバクーに至るペルシアのカスピ海沿岸を荒らし、ラシュトの中央市場では住民の大殺戮に及んだ。1669年の春、スイナ島を収めたラージンは、7月にはペルシア艦隊を撃滅、ステンカ・ラージンは手のつけられない存在となった。