ステラインターナショナル
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有限会社ステラインターナショナル
STELLAR INTERNATIONAL
種類有限会社
本社所在地 日本
193
東京都八王子市緑町
設立1981年
業種サービス業
モータースポーツイベントへの参戦及び企画、運営
レーシングチームの企画、運営
代表者福井清志
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ステラインターナショナル (STELLAR INTERNATIONAL) は、かつて活動していた日本の自動車レーシングチーム。拠点は東京都八王子市[1]。1980年代より全日本耐久選手権全日本ツーリングカー選手権全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポンなどトップカテゴリーに参戦し好成績を挙げた。代表者は福井清志[2]
歴史

1981年に前身となるオートビューレック・モータースポーツ (AUTO BEAUREX MOTOR SPORT) 設立。八王子市の国道16号沿いにファクトリーが置かれた。グループ5BMW・M1[3]長坂尚樹をドライバーにスーパーシルエットレースに参戦。「日産ターボ軍団」と呼ばれていた長谷見昌弘星野一義柳田春人に挑む外国製車両の筆頭として注目された[4]富士ロングディスタンスシリーズでは長坂と佐藤文康のコンビで1982年シリーズチャンピオンを獲得する。以後、日本国内におけるBMW車両でのレース参戦でチームは知られるようになった[5]

1983年シーズン後半よりドイツのコンストラクターが制作したBMW・M88エンジンを搭載するグループC2マシン、ロテック・M1Cを購入し、長坂と鈴木恵一をドライバーに1984シーズンまで同マシンで全日本耐久選手権およびカレンダーに組み込まれていたWEC-JAPANに参戦。1985年からはトムス・84C/トヨタで全日本耐久選手権に参戦。同シリーズでは1986年にスティーブン・アンドスカー、1987年にはアンドリュー・ギルバート=スコットを起用した。ギルバート=スコットは以後10年以上各カテゴリーのマシンを乗りこなし、チームを支える存在となった。

1985年より始まった新カテゴリー「全日本ツーリングカー選手権 (JTC)」にはハルトゲBMW・635CSiを日本のレース界に投入して参戦した[6]。1986シーズンをもって創設から6年間メインドライバーとして牽引した長坂が移籍でチームを離れた。

1987年からカー用品ショップ「オートテック (AUTO TECH)」のスポンサーを得て、JTCでは黄色いボディに赤いロゴがトレードマークとなる。JTC参戦初期のドライバーはベテラン柳田春人中川隆正だった。柳田は1988年のJTC-2クラスでウィル・ホイとのコンビでクラスチャンピオンをチームにもたらした。

1988年シーズンで全日本耐久選手権への参戦を終了する。これまでツーリングカーやスポーツカーレースへの参戦だったが、1989年からはツーリングカー選手権に参戦継続しつつ、小河等をドライバーに起用して国内最高峰フォーミュラの全日本F3000選手権に初参戦する。シーズン序盤は1年型遅れのローラ・T88/50での参戦開始だったが、開幕戦から連続表彰台に立つなど活躍。第7戦鈴鹿では小河・チームともに初となるF3000での優勝も達成。初年度にして王者・星野一義IMPULを破りF3000シリーズチャンピオンを獲得する。

1990年よりレース参戦時のエントラント名をオートビューレックからステラインターナショナルへと変更し、F3000ではキグナス石油からの支援が決定。「チームキグナス TONEN STELLAR」として2カーエントリーとなり、小河がランキング2位を獲得、影山正彦もF3000初入賞を記録した。ツーリングカーでは、「オートテックBMW・M3のドライバーとして乗れるチャンスはないか?」という逆オファーがローランド・ラッツェンバーガーから電話で福井に届いていた。ラッツェンバーガーは欧州でシュニッツァーBMWのドライバーとして実績があったが、知人のレース関係者から「彼は結構マシンのセッティングに関してワガママ言いますよ。」という評判も聞いていた。オーディションを兼ねたテスト走行で「荒削りだったが確かに速かった」と福井が能力を確認し起用を決めた。ラッツェンバーガーは中川やトーマス・ダニエルソンとのコンビで全日本ツーリングカーJTC2クラスチャンピオンを2度オートテック・ステラで獲得した[7]。同体制でマカオグランプリ・ギアレースへも参戦した。

1992年、小河がトヨタワークスSWC参戦ドライバーに抜擢されたため、ステラを離れることになった。代わってラッツェンバーガーがF3000でもステラから参戦することになり、ギルバート=スコットとの2台体制でコンビを組んだ。しかし、5月にSWCの合間を縫ってセルモより全日本F3000にスポット参戦した小河が、ギルバート=スコットとの接触によって命を落とすという悲劇に見舞われた[8]。その状況でもチームは奮起し、第9戦鈴鹿ではラッツェンバーガーが優勝、ギルバート=スコットが2位でフィニッシュ。ステラは日本のフォーミュラ最高峰カテゴリーでの1-2フィニッシュを達成した[9]

F1シート獲得を目指していたラッツェンバーガーは'93年をもって日本でのレース参戦を終了したが、1994年の全日本F3000ではタイトルスポンサーが新たに神奈川クリニックとなり、ギルバート=スコットが開幕戦から連続でポールポジション獲得など速さを発揮した。最終戦まで松本恵二監督が陣頭指揮を執る童夢マルコ・アピチェラとタイトル争いを展開。シーズン3回の優勝を挙げ、ランキング2位となった。ツーリングカー選手権のドライバーとしては中谷明彦が加入、1995年からF3000ではミハエル・クルムが加入してギルバート=スコットとコンビを組んだ。クルムは1996年のフォーミュラ・ニッポン第2戦MINEでチームにとって最後となるポールポジションを獲得した。JTCCではオートテックBMWで中谷がチーム最後の勝利となる1勝を第9戦仙台ハイランドで記録した。

1996年シーズン途中から福井代表の体調悪化が報じられる。ツーリングカー選手権は1997年にスポット参戦となり、同年を最後に撤退。フォーミュラ・ニッポンも1998年を最後に参戦を終了した。

福井はその後、オートビューレック時代からの右腕である野呂チーフエンジニアと共に新チーム名称「フィールド」と心機一転し、2000年フォーミュラ・ドリームに携わった[10]
レース戦績
1981年

富士スーパーシルエットレース
No.1
長坂尚樹(オートビューレック BMW・M1)No.82 内田審司(オートビューレック BMW・M1) 9月6日インター200スーパーシルエット優勝[11]

富士ロングディスタンスシリーズ
No.82 内田審司 / 長坂尚樹 組(オートビューレック BMW・M1) 7月26日富士1000km優勝[12]
1982年

富士スーパーシルエットレース
No.1 長坂尚樹(オートビューレック
BMW・M1) 5月3日グラン250kmレーススーパーシルエット優勝No.82 内田審司(オートビューレック BMW・M1)

富士ロングディスタンスシリーズ
No.1 長坂尚樹 / 佐藤文康 組 (オートビューレック BMW・M1) 6月6日富士500km、7月25日富士1000km、11月28日富士500km優勝。このほか8月29日鈴鹿1000kmも優勝。
1983年

スーパーシルエットレース
No.1 長坂尚樹(RACING MATE オートビューレック BMW・M1)

富士ロングディスタンスシリーズ
No.1 長坂尚樹 / 清水正智 組(RACING MATE オートビューレック BMW・M1) 6月5日富士500km優勝

全日本耐久選手権 / WEC-JAPAN
No.65 長坂尚樹 /
鈴木恵一 / クルト・ロッテルシュミット 組(ロテック・M1C BMW)※ロッテルシュミットはWEC-JAPANのみ
1984年


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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