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ステュアート朝(Stuart dynasty または Stewart dynasty)は、1371年から1714年まで続いたスコットランド起源の王朝。1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となり、1707年にグレートブリテン王国(イギリス)を成立させた。「ステュアート」は、スコットランド語の宮宰職、スコットランド大家令(英語版)(Lord High Steward of Scotland)に由来する。メアリー女王のとき綴りをStewartからStuartに改めた。
スコットランド王朝時代「スチュワート氏族」も参照
存在が知られているステュアート家の最も古い祖先はフランスのブルターニュ地方のブリトン人小貴族フラールド(Flaald, ? - 1099年)で、孫のフラールド2世がヘンリー1世に従ってイングランドに移住した。その孫のウォルター・フィッツアラン(? - 1177年)は、イングランドの無政府時代にモードを支持し、その叔父であるアサル家のスコットランド王デイヴィッド1世に仕えて王室執事長(Lord High Steward)に任命された。この地位は世襲され、ステュワートが家名となる。第6代執事長のウォルター・ステュワートがブルース家のロバート1世(母方の祖母マーガレットが第3代執事長ウォルター・ステュワートの娘である)の娘マージョリーと結婚したことによって、スコットランド王室に連なった。
1371年、デイヴィッド2世が没してブルース家が断絶すると、ウォルターとマージョリーの息子ロバートがロバート2世として即位し、ステュアート朝が始まり、以降、ロバート3世からジェームズ6世まで、続いて計8人がスコットランド王として統治した。多くの王が幼少にして即位したこともあり、有力貴族間の政争や貴族との対立に巻き込まれ、王が殺害・連行される事態が相次いだ。対外的には、イングランドとはおおむね険悪な関係で、同盟国フランスを巻き込んでしばしば戦いがおこった。 イングランドからテューダー家のヘンリー7世の娘マーガレットがジェームズ4世に嫁してジェームズ5世が生まれ、ステュアート家はイングランドの王位継承権を得た(ただし、ジェームズ4世の祖父ジェームズ2世はヘンリー7世の大おばジョーン・ボーフォートの子であり、すでにイングランド王家との血のつながりはあった)。 ジェームズ5世の長女メアリーは、後のフランス国王フランソワ2世の婚約者として幼少よりフランス宮廷で育ち、夫の死後帰国してスコットランド女王に即位していた。メアリーはフランス風を好み、家名の綴りをステュワート(Stewart)からフランス語風のステュアート(Stuart)に改めた。 イングランドでエリザベス1世が即位すると、メアリーはエリザベスが庶出であるとしてイングランド王位を要求し、スコットランドとイングランドの関係は悪化した。嫡子のいなかったエリザベス1世の死後、メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位にも就き、アン女王の時代にグレートブリテン王国として統合されるまで、両国は共通の王と独自の政府・議会を持つ同君連合体制をとった。これをイギリス史では王冠連合と呼ぶ。 ジェームズ1世とその子チャールズ1世は、王権神授説を唱えて国王の絶対性を説き、議会と対立した。清教徒革命(イングランド内戦)が起こるとチャールズ1世は処刑
王冠連合
なお、ピューリタン革命期にイングランドでは王のいない空位時代があったが、スコットランドでは王太子のチャールズ2世がただちに即位して空位時代はなかったとされる。
家名の元となったスコットランド大家令(スコットランド王室執事長)の称号は、1398年ロバート3世の長男デイヴィッド(英語版)以来、スコットランド王位継承者の爵位であるロスシー公爵が兼務した。これはイングランド・スコットランド王位を兼ねたジェームズ1世以後の英国王家でも踏襲され、現在は皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)が複数兼任する爵位・称号の一つである。
ステュアート家関連年表スチュアート王朝の最後の成員(ジャコバイトの王)ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ8世ならび3世)、チャールズ・エドワード、ヘンリー・ベネディクトの3人の墓碑サンピエトロ大聖堂(バチカン)。