ステファノ・モデナ
[Wikipedia|▼Menu]

ステファノ・モデナ
基本情報
国籍
イタリア
出身地同・モデナ県サン・プロスペロ
生年月日 (1963-05-12) 1963年5月12日(61歳)
F1での経歴
活動時期1987-1992
過去の所属チーム'87,'89-'90 ブラバム
'88 ユーロブルン
'91 ティレル
'92 ジョーダン
出走回数81 (70スタート)
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数2
通算獲得ポイント17
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1987年オーストラリアGP
最終戦1992年オーストラリアGP
テンプレートを表示

ステファノ・モデナ(Stefano Modena, 1963年5月12日 - )は、イタリアモデナ県サン・プロスペロ出身のレーシングドライバーで元F1ドライバー。1987年の国際F3000チャンピオンローマ在住[1]

1989年当時フジテレビで中継実況を担当していた古舘伊知郎から「シャイなイタリアン」と呼ばれるなど、物静かな性格であった。自身でも「私は判断を急がず、非常に慎重なドライバーだ。」と述べている[1]
経歴

イタリア・モデナ県に生まれ、ジュニアカートでイタリア・チャンピオンになると、1978年のジュニアカート世界選手権でチャンピオンを獲得。世界選手権でのライバルはイヴァン・カペリ[2]アイルトン・セナ[3]などであった。イタリアのカート会社DAPのオーナー、アキーレ・パリッラからの指導を受け、1980年、1981年とイタリア・カート選手権100ccクラスで二年連続王者を獲得するなどイタリアカート界で「天才少年」として知られた存在だった。21歳までカートレースへの参戦をメインとし、獲得タイトルはイタリア、ヨーロッパ、世界選手権、ジュニア・ワールド、パン・アメリカンなど総なめにした[4]

イタリア・フォーミュラ・フォード選手権へとステップアップし四輪デビュー、1985年からイタリアF3選手権に参戦開始。F3初年度は5ポイントを挙げドライバーズランキング15位、1986年には3勝を挙げランキング4位に浮上した。同年はモナコGPサポートレースのF3でヤニック・ダルマスに次ぐ2位、11月のマカオグランプリではポールポジション獲得などビッグレースで好結果を残した。シーズン終了後、国際F3000に参戦中で共にマールボロをメインスポンサーとしていたオレカオニクスのマシンテストに招かれた[4]
F3000

1987年に国際F3000選手権へとステップアップ。マールボロ・オニクスチームでピエール=アンリ・ラファネルとコンビを組んだ。モデナはマーチ・87B DFVでシーズン3勝を挙げシリーズチャンピオンを獲得する。この時期にはマールボロから強力なプッシュを受けており、スクーデリア・フェラーリの時期NAマシン・639の開発ドライバー候補に挙げられていたが[5]、フェラーリの総帥エンツォ・フェラーリとは実際に面談しており1989年のオプション契約について話し合いがもたれていた[6]
F1

国際F3000でチャンピオンが決定していた1987年11月、第15戦日本GP直後にイモラで行われたベネトン・フォーミュラのマシンテストに招かれB187をドライブ。同じ日に同じマシンに乗っていたすでにF1実績のあるティエリー・ブーツェンアレッサンドロ・ナニーニと遜色ないタイムを記録し関係者の衆目を集めた[7]。するとその翌週に開催だった最終戦オーストラリアGPウィリアムズへと移ったリカルド・パトレーゼの代役を探していたブラバムから声がかかり、急遽F1デビューが決定。初めて乗るBT56で予選を15位で通過したが、決勝はリタイヤとなった。

1988年に参戦開始した新チーム、ユーロブルンと契約しF1レギュラードライバーとなった。新興チームゆえ表立った活躍はなかったが、チームメイトのオスカー・ララウリには予選で16戦中15勝1敗と圧倒。後半にはマシンの戦闘力不足から4度の予選落ちも経験したが、ララウリはその倍となる8度の予選落ちを喫していた。

1989年、ターボエンジンの禁止を受けて参戦休止から復帰したブラバムに加入。シーズン前半戦に義務付けられていた予備予選の壁を苦にすることなく、第3戦モナコGPでは予選8位から3位に入り、F1初入賞・そして初の表彰台を獲得。モデナはその後も「ストリートコース」で、しばしば才能を発揮することとなる。同年はブラバム・BT58の駆動系トラブルの多さもありリタイヤは16戦中10回を数えた[注釈 1]。また第12戦イタリアGPでは、車重測定無視により地元グランプリにもかかわらず決勝を走行出来ない事態も発生した。この年、予選でピレリのQタイヤを活かし好グリッドを獲得しても、ピレリの決勝用タイヤがグッドイヤーよりも耐久性能で劣勢だったため[注釈 2]、被オーバーテイク数は68を数えF1記録(同記録は2012年にシャルル・ピックが更新)となった[8]

1990年もブラバムに残留。開幕戦アメリカGPで予選10位から5位入賞、前年に続きストリートコースで技術を発揮した。その後は新車BT59が投入されるも入賞が無く、リタイヤも9回と苦しいシーズンとなったが、グレガー・フォイテク[注釈 3]デビッド・ブラバム[注釈 4]のチームメイト2人には16戦全勝。ブラバムが6度の予選落ちを喫したのに対し、モデナは全戦で決勝に進出している。同年ポルトガルGPの予選2日目にティレルが会見を開き、翌シーズンからモデナが加入しティレル・ホンダのエースドライバーとなることを発表した。契約は1年プラス1年のオプション付きであることも併せてリリースされた[注釈 5]

1991年にティレルに移籍。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:143 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef