ステパナケルト
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ハンケンディ
Xank?ndi
位置

アゼルバイジャンでの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度48分55秒 東経46度45分7秒 / 北緯39.81528度 東経46.75194度 / 39.81528; 46.75194
行政
アゼルバイジャン
 経済地区カラバフ
 市ハンケンディ
地理
面積 
  市域29.12[1] km2
標高813 m
その他
等時帯AZT (UTC+4)

ハンケンディ(アゼルバイジャン語: Xank?ndi、Khankendi)は、アゼルバイジャン共和国カラバフ経済地区(英語版)の都市である。

ステパナケルト(アルメニア語: ???????????, ラテン文字転写: Stepanakert)は、かつて同国から事実上独立していたアルツァフ共和国(旧称ナゴルノ・カラバフ共和国)の法令上の首都である[2]

2023年9月19日から9月20日まで行われたアゼルバイジャンの軍事作戦でアルツァフが降伏後、町はアゼルバイジャンが実効支配している。アルツァフ政府はアルメニアエレバンへ移転し[3]、もぬけの殻となった政庁にはアゼルバイジャンの国旗が掲げられた。

2021年時点で7.5万人のアルメニア人が居住していたが[4]、同国の降伏後に町から脱出した。2023年10月3日時点では病人、高齢者、障害者などを含めた数百人しか残っておらず、ゴーストタウンのように閑散としている[5][6]。他方でアゼルバイジャン人の住民は、1990年代のナゴルノ・カラバフ戦争の時に全て町を脱出している。
歴史
町の起こりとソビエト連邦時代ソビエト連邦時代に建てられた集合住宅。ナイリ・ホテルより撮影

中世アルメニアに文献に現れるこの町の最古の呼称はヴァララクン(アルメニア語: ????????, ラテン文字転写: Vararakn、「速い川」)であり、1847年にハンケンディに改称されるまでこの名称であった[7]。アゼルバイジャンの文献では、この町の起源は18世紀後半にアゼルバイジャン人のカラバフ・ハーンが築いたとしており、「ハンケンディ」(ハーンの村)の呼称はこれに由来するとしている。

現代の町は十月革命の後の1917年に、ハンケンディと呼ばれていたこのアゼルバイジャン領の村に築かれた。1923年バクー出身のアルメニア人共産主義指導者・ステパン・シャウミャンにちなんでステパナケルトと改称され、アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフ自治州の首都とされた。ソビエト連邦時代、ステパナケルトはこの地域の拠点都市へと発展した。

1926年、ソビエト連邦の当局は著名なアルメニア人の建築家・アレクサンドル・タマニアンによる新しい都市デザインを採用し、その後1930年代1960年代に、タマニアンによる初期の計画に沿う形であわせて2度の拡張計画が認められた[7]1980年代半ばまでステパナケルトは町の経済拠点として機能し、町には19の製造施設があった[7]
独立ナゴルノ・カラバフ戦争でアゼルバイジャン領に侵攻した戦車。ステパナケルト郊外に記念碑として残されている。

1985年に始まったソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによる一連の改革政策では連邦の分権化が進められた。アルメニア共和国とナゴルノ・カラバフにまたがって暮らしていたアルメニア人は、ゴルバチョフの改革を両地域の統一の好機と捉えていた。1988年2月20日、数万人のアルメニア人がステパナケルトのレーニン広場に集結し、ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの編入を求めた。同じ日に、ナゴルノ・カラバフ最高ソビエトは、同地域のアルメニア共和国への編入を採択し、アゼルバイジャン共和国の当局と真っ向から対立した[8]。その後ステパナケルトに住むアルメニア人とアゼルバイジャン人の関係は悪化し、ほぼ全てのアゼルバイジャン人が町を去ることを余儀なくされた。

アゼルバイジャンが1991年にソビエト連邦からの独立を宣言すると、アゼルバイジャン政府は反共主義・アゼルバイジャン化運動に基づいて、ステパナケルトの名前を古称のハンケンディへと戻した。ナゴルノ・カラバフ地域をめぐって戦争が勃発し、その結果として同地域はアルメニアの支配下となり、同地域とアルメニアを結ぶ回廊が確立された。戦争前、ステパナケルトはナゴルノ・カラバフ地域で最大の都市であり、18万9千人の地域住民(うちアルメニア人が75%)のうち、およそ7万人が居住していた[9]1992年初期には、町の人口は5万人にまで低下した[10]

戦争中、町はアゼルバイジャンの爆撃によって、特に1992年初期にアゼルバイジャンがシュシャ(英語版)の町を、ステパナケルトに対する多連装ロケット砲BM-21の砲撃拠点とした際に大きな損害を受けた。激しい損傷は絶え間ない砲撃によるものであり、1992年4月のタイム誌は「ステパナケルトで損害を免れた建物はほぼ皆無である。」と報じている[10]。アゼルバイジャン軍は町に対する地上攻撃も何度か挙行したが、その度に失敗に終わっている。1992年5月9日、アルメニア軍のシュシャ占領(Capture of Shusha)によって砲撃は止んだ。しかし、その後も戦争中はたびたび砲撃を受けた。

1994年から非公式の停戦状態に入っていたが、2020年に起きたアゼルバイジャンとの紛争で、市街地が再び砲撃を受けることになった[11]赤十字国際委員会はこの砲撃でステパナケルトの市民も被害を受けたと警告した[12]
アルツァフの降伏アゼルバイジャン国旗を掲げるイルハム・アリエフ大統領(2023年10月15日)

2023年ナゴルノ・カラバフ衝突で再び砲撃を受けた[13]。9月20日にアルツァフ共和国は降伏し、アルメニア人住民の脱出が始まった。アルツァフ共和国内務省(英語版)のステパナケルト警察はすべての武器を残して町を離れ[14]、9月29日にアゼルバイジャン警察が公務を引き継いだ[15]。10月1日、アゼルバイジャンによって医療サービスが再開した[16]。アルツァフ大統領宮殿に設置されていたアルツァフの国章は撤去され、代わりにアゼルバイジャンの国章が取り付けられた[17]

10月15日、アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領が町を訪問し、旧アルツァフ大統領宮殿前にアゼルバイジャン国旗を掲げた後、演説を行った[18]


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