スティーヴ・ディッコ
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スティーヴ・ディッコ
Steve Ditko
高校上級生だったころのディッコ(1945年)
生誕 (1927-11-02) 1927年11月2日
アメリカ合衆国ペンシルベニア州ジョンズタウン
死没2018年6月29日ごろ(90歳没)
アメリカ合衆国ニューヨーク
代表作スパイダーマン
ドクター・ストレンジ
クリーパー(英語版)
ホーク&ダブ(英語版)
ミスターA(英語版)
クエスチョン
キャプテン・アトム(英語版)
ブルービートル(英語版)
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スティーヴン・J・ディッコ(Stephen J. Ditko[1][?d?tko?]、1927年11月2日 ? 2018年6月29日ごろ)はアメリカンコミック作画家原作者マーベル・コミックス社でスタン・リーとともにスパイダーマンドクター・ストレンジのキャラクターを創作し、それらのシリーズの作画を行ったことで知られる。

美術学校でバットマンの作画家ジェリー・ロビンソンから指導を受けた。1953年にインカーとしてジョー・サイモンジャック・カービーのスタジオに入ったのがプロ活動の始まりで、スタジオの同僚モート・メスキンからも影響を受けた。その時期にチャールトン・コミックスと関係を結び、後年に至るまでSF、ホラー、ミステリのジャンルで作品を提供したほか、1960年には他の作家とスーパーヒーローのキャプテン・アトムを共作した。

1950年代にマーベル社の前身アトラス・コミックスで活動し、その後マーベルで『アメイジング・スパイダーマン』や、『ストレンジ・テイルズ』誌の連載「ドクター・ストレンジ」の作画を一手に引き受けるなど、重要な作品を多く残した。しかし1966年にマーベル社を去った。その決定的な理由は明かされていない。

その後はチャールトンとDCコミックスで活動を続け、歴史の長いキャラクターのブルービートルを再生させたほか、クエスチョン、クリーパー、シェイド・ザ・チェンジングマン、ホーク&ダブなどの新キャラクターを制作した(共作も含む)。また独立系の小出版社でもコミックを描くようになり、アイン・ランドが唱えたオブジェクティビズム思想に強く影響されてミスターAというキャラクターを作り出した。

ディッコは作品を通じて自己を表現することを好み、ほとんどインタビューを受けなかった。コミック界で名誉あるジャック・カービー殿堂(1990年)およびウィル・アイズナー賞殿堂(1994年)に選出されている。
生い立ち

スティーヴン・J・ディッコは1927年11月2日にペンシルベニア州ジョンズタウンにおいて[2]、スロヴァキア系アメリカ人一世の夫婦の間に生まれた[3]。父スティーヴンは製鋼所(英語版)に勤める大工の親方で美術の才に恵まれており、母アンナはホームヘルパーだった。労働者階級の夫婦は、第2子スティーヴのほか、その姉アンナ・マリー[3]、妹エリザベスと弟パトリックを育てた[1]。スティーヴの父は新聞のコミック・ストリップ、特にハル・フォスターの『プリンス・ヴァリアント(英語版)』を愛読していた。父の好みを受け継いだスティーヴは、1940年にスーパーヒーローバットマンと出会い、またタブロイドサイズのコミックブックとして新聞の日曜版に付属していたウィル・アイズナーの『スピリット(英語版)』を読んでコミックへの興味を高めていった[4]

第二次世界大戦中、中学時代のディッコは、民間対空監視員が用いるドイツ航空機の木製模型をほかの生徒とともに作製した[4]。1945年にジョンストン・ハイスクールを卒業すると[4]、同年10月26日に陸軍に入隊し[3]、終戦後のドイツで兵役に就くかたわら軍機関紙にコミックを発表した[4]
アーティストとしての経歴
プロデビュー前後

除隊後、崇拝していたバットマンの作画家ジェリー・ロビンソン(英語版)がニューヨークの美術学校[† 1] で教鞭を取っていることを知った。ディッコは1950年にニューヨークに移り、復員兵援護法(GI法)による支援を受けて同校に入学した[5]。ロビンソンは若き日のディッコを「非常な努力家で、描くことに打ち込んでいた」、また「原作者と組んでも良かったし、自分で話やキャラクターを作るのも上手かった」[6] と語っている。ロビンソンはディッコが翌年に奨学金を受けられるように取り計らい[7]、「2年間にわたって、週に4回か5回、夜間に5時間ずつ教えた。濃密な時間だった」[8] という。ロビンソンは授業にコミックアーティスト編集者を招くことがあり、マーベル・コミックスの前身アトラス・コミックス(英語版)の編集者スタン・リーもその一人だった。ロビンソンによれば、リーがディッコの作品を見たのはそれが最初だった[8]

1953年初頭、ブルース・ハミルトンの原作によるSF作品 "Stretching Things" で初めてプロとしてコミックブックの作画を行った。同作はキー・パブリケーションズ(英語版)のインプリントであるスタンモーのために描かれたが、スタンモーからエイジャックス-ファレル(英語版)社に売却され、Fantastic Fears 第5号(発行日表示1954年2月)でようやく日の目を見た[9][10]。実際に出版されたのはプロ第2作となる6ページの短編 "Paper Romance" の方が先だった。同作はキー社の別のインプリントであるギルモー・マガジンズが発行する Daring Love 第1号(1953年10月)に掲載された[9][11]

ほどなくしてディッコはジョー・サイモンジャック・カービーのスタジオに職を見つけた。二人はいずれも原作者兼作画家で、すでにキャプテン・アメリカなどのキャラクターを生み出していた。背景のインクペン入れ)担当として仕事を始めたディッコは、以前から尊敬していたモート・メスキンと同僚になり、絵を学ぶようになった。「メスキンは素晴らしかった」とディッコは回想している。「あんな絵を易々と描けるなんて信じられなかった。構図は力強く、ラフなペンシル画でも完成されていて、ごちゃごちゃさせずにディテールを描く。本当に好きだった」[12] ディッコがアシスタントとして関わったことが確定している作品には、カービーがペンシル(下絵)を描き、メスキンがディッコとともにインカーを務めた Captain 3-D 第1号(1953年12月、ハーヴェイ・コミックス(英語版))がある[13]。ディッコが自身でペンシルとインクを行った第3作 "A Hole in His Head" は、サイモンとカービーのクレストウッド社(英語版)のインプリントであるプライズ・コミックスが出していた Black Magic 第4シリーズ3号(1953年12月)に掲載された[14]


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