スティーヴ・エトウ
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スティーヴ エトウ
出生名衛藤高登
別名Steve Eto
生誕 (1958-04-20)
1958年4月20日(66歳)
アメリカ合衆国
出身地 日本
学歴早稲田大学卒業
職業音楽家
パーカッショニスト
担当楽器パーカッション
活動期間1981年 -
レーベルBoogaloo レーベル
1998年 - 2000年
公式サイト ⇒スティーヴ エトウ 公式Webサイト

スティーヴ エトウ(Steve Eto、本名:衛藤高登、1958年4月20日 - )は日本で活躍するパーカッショニスト重金属打楽器奏者)。

活動初期は「スティーヴ衛藤」という表記であったが、現在の正式表記は「スティーヴ エトウ」(「ヴ」と「エ」の間に半角スペース)である。

現在は音楽事務所等に所属しておらず、フリーランスにて活動中。打楽器によるワンマンライブも行っている。
略歴

米国ロサンゼルス生まれ、6歳までニューヨークで過ごす。当時の家は、後にジョン・レノンが射殺されることになるダコタ・ハウス(w:The Dakota)からわずか数軒隣りの場所にあった。三人兄弟の次男。父は第二次世界大戦後にアメリカに渡り大活躍した全盲カリスマ箏曲家衛藤公雄[1]、兄はビクターの宣伝マンとして多くの音楽家を育てた衛藤弘幸、弟は和太鼓奏者レナード衛藤

両親ともに日本人であるが、アメリカ合衆国生まれの為、現在アメリカ国籍を有している。自身のブログに屡々ビザに関するネタを投稿している。弟のレナードもアメリカ国籍である。

早稲田大学系属早稲田実業学校高等部早稲田大学出身。高校時代は鎌倉市極楽寺に在住[2]。高校の同期に小室哲哉、大学の同期にはホッピー神山サンプラザ中野聖飢魔IIなど。中学時代は風紀委員長、高校時代は生徒会の書記を務めていた。

高校1年生の時にサンタナを聴いてパーカッションを始める。初めて買った打楽器は渋谷河合楽器にて14,000円で買ったボンゴ

西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」ツアーへの参加でプロの音楽家としての活動を開始。

ヤマハのコンテストEastWest'81に出場し、ベストパーカッショニスト賞を獲得。その後ファンキー末吉に誘われ、この大会でグランプリを受賞した爆風銃(バップガン)に加入。PINKを経て、布袋寅泰COMPLEX吉川晃司藤井フミヤなどのサポートメンバーとして活動。後に小泉今日子のライブバックバンドの一員となる。

1998年には自身のアルバム『スティーヴ エトウ』リリース。楽曲のタイトルはすべて小泉今日子により命名された。

三波春夫のツアーに参加した経緯から、2002年新潟県三島郡越路町にできた三波の銅像にはエトウの名も彫られている。

2003年に初めて奄美大島を訪れてから、リゾートではない奄美群島に惹かれ、年に数度訪問、我那覇美奈らと開催している「Dearどぅしでぃあ」などの奄美関連イベントに常連参加しており、奄美の人よりも奄美に詳しいといわれるほどの奄美好き[3]朝崎郁恵のライブに企画参加もしている。奄美の太鼓「ちぢん」を多数保有。奄美のハブ皮を巻いたオリジナルのドラムスティックを制作し、原ハブ屋奄美公認「はぶ大使」と呼ばれている。

スキンヘッドで、温和な顔立ちのため、映画『一遍上人』では僧侶の役で出演。奈良県などに行くと、実際に僧侶と勘違いされて手を合わされることがあるという。

長らく東京都世田谷区在住だったが、2015年初頭より奈良市在住。2016年より奈良市のならまちでギャラリー工房「太古堂」を営み、店頭にも立つ。また、奈良市周辺での音楽イベントや東大寺など、地元の行事にも広く参加している。
演奏スタイル


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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