スティーヴ・ウィンウッド
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スティーヴ・ウィンウッド
Steve Winwood
2009年8月13日、クロプレディ・フェスティヴァルで演奏中のウィンウッド
基本情報
出生名Stephen Laurence Winwood
生誕 (1948-05-12) 1948年5月12日(76歳)
出身地 イングランド バーミンガム
ジャンルロック
ブルースロック
ブルー・アイド・ソウル
サイケデリック・ロック
ジャズ
職業シンガーソングライター
担当楽器キーボードギター
活動期間1960年代 -
レーベルアイランド
ヴァージン
コロムビア
共同作業者スペンサー・デイヴィス・グループ
トラフィック
ブラインド・フェイス
ツトム・ヤマシタ
エリック・クラプトン
デイヴ・メイスン
公式サイトwww.stevewinwood.com
該当項目を参照

スティーヴン・ローレンス・ウィンウッド(通称スティーヴ・ウィンウッド、Stephen Laurence "Steve" Winwood、1948年5月12日 - )は、イングランドバーミンガム出身のブルー・アイド・ソウルロック・ミュージシャン。

1960年代半ばにスペンサー・デイヴィス・グループのメンバーとして音楽活動を開始し、1970年代半ばまではトラフィックブラインド・フェイスなどロック史に残るバンドの中心メンバー、その後はソロ・アーティストとして、60年近く活動している。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位[1]
概要

ウィンウッドの音楽は、リズム・アンド・ブルースソウル・ミュージックなど黒人音楽に強い影響を受けている点に特徴がある。主に歌手兼鍵盤楽器奏者だが、ギターやベースドラムスも演奏できるマルチプレイヤーである。

1960年代中盤にスペンサー・デイヴィス・グループの一員として「愛しておくれ(Gimme Some Lovin')」などで人気を博し、グループを脱退後はトラフィックのメンバーとしても成功を収めた。

1970年代後半以降はソロで活動。主なヒット曲に「ハイヤー・ラヴ」「ロール・ウィズ・イット」などがある。
経歴
生い立ち

バーミンガム郊外のグレート・バーで生まれる。音楽の才能は幼少時代から卓越したものがあり、10代前半で既に兄マフ・ウィンウッドが結成したジャズ・バンドの看板的存在として活動していたという。

また、マディ・ウォーターズジョン・リー・フッカーT-ボーン・ウォーカーハウリン・ウルフB.B.キングサニー・ボーイ・ウィリアムスンII、エディ・ボイド、オーティス・スパンチャック・ベリーボ・ディドリーら有名ミュージシャンの英国ツアーの際には、バックでハモンドオルガンやギターを演奏した[2]
バンド活動

15歳の頃、マフと共にスペンサー・ディヴィス・グループに参加。詳細は「スペンサー・ディヴィス・グループ」を参照

1964年に、ジョン・リー・フッカーのカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国チャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「愛しておくれ・ギミ・サム・ラヴィン」[注釈 1]アイム・ア・マン」を録音した後、彼とマフは1967年にグループを脱退。

同年、クリス・ウッド 、ジム・キャパルディ、デイヴ・メイスンとトラフィックを結成する。詳細は「トラフィック (バンド)#1967年?1969年」を参照

トラフィックで『ミスター・ファンタジー』『トラフィック』など3枚のアルバムをリリース。1968年にはメイスン、ウッドとジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのアルバム『エレクトリック・レディランド』のレコーディングに参加して、「ヴードゥー・チャイル」でオルガンを弾いた。

1969年、トラフィックを解散してエリック・クラプトンらとブラインド・フェイスを結成。詳細は「ブラインド・フェイス」を参照

ブラインド・フェイスはアルバム『スーパー・ジャイアンツ』のリリースとアメリカ・ツアー後にあえなく解散する。ウィンウッドはソロ・アルバム『マッド・シャドウズ』のレコーディングを進めたが、ゲストに迎えたウッド、キャパルディと共にトラフィックの活動再開を決意。『マッド・シャドウズ』を『ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ』に改題して、トラフィックのアルバムとして1970年に発表した。詳細は「トラフィック (バンド)#1970年?1974年」を参照トラフィック時代のウィンウッド

トラフィックは1974年のアルバム『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』を最後に終焉を迎えたが、その間、ウィンウッドは腹膜炎を患って危険な状態に陥ったこともあった。また1972年には、ロンドン交響楽団とイギリス室内合唱団によるロック・オペラ『トミー』のアルバム制作とコンサートに独唱者として客演した[注釈 2][3]
ソロ活動

その後、日本人パーカッショニストのツトム・ヤマシタによるGOを始めとするいくつかのプロジェクトへの参加を経て、1977年にはセルフ・タイトル・アルバムでソロ・デビューするが、パンクブームの真っ只中にあって、今ひとつ大きな成功には至らなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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