スティーヴ・アルビニ
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スティーヴ・アルビニ
Steve Albini
シェラックでのライヴ(2008年)
基本情報
出生名Steven Frank Albini
生誕 (1962-07-22) 1962年7月22日
出身地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 パサデナ
死没 (2024-05-07) 2024年5月7日(61歳没)
ジャンルポスト・ハードコアノイズロックパンク・ロックオルタナティヴ・ロック
職業レコーディング・エンジニアミュージシャン音楽プロデューサー、音楽ジャーナリスト
担当楽器ボーカルギターベースドラムス
活動期間1981年 - 2024年
レーベルタッチ・アンド・ゴー
共同作業者ビッグ・ブラックレイプマンシェラック、ピッグフェイス、ペグボーイ

スティーヴン・フランク・アルビニ(Steven Frank Albini、1962年7月22日 - 2024年5月7日)は、アメリカ合衆国レコーディング・エンジニアおよびミュージシャンである。シカゴを中心としたアメリカ中西部を拠点に、1980年代後期以降のオルタナティヴ・ロック/アンダーグラウンド・ロックシーンを代表する名エンジニアである。

レコーディング・エンジニアとして活動する一方でビッグ・ブラック(1982年 - 1987年)やレイプマン(1987年 - 1989年)というバンドのギタリストおよびボーカルを務め、死去時点ではシェラック(1992年 - 2024年)で活動を行っていた。
経歴

1962年カリフォルニア州パサデナに生まれ、1974年モンタナ州ミズーラに移住。14、5歳のときに同級生の影響でラモーンズに夢中になり、これがその後の音楽キャリアの出発点にあったと本人は語っている[1][2]
ビッグ・ブラック時代:1981?1987

高校卒業後、シカゴにあるノースウェスタン大学ジャーナリズムを学ぶ。地元のファンジンでライターとして活躍する傍ら、バンド活動にも力を注ぎ、1981年、NU在学中にビッグ・ブラックを結成する。1984年にホームステッド・レコードからEP「Racer-X」を、1986年にファースト・アルバム『Atomizer』をリリース。1986年にホームステッドからタッチ・アンド・ゴー・レコーズに移籍し、同年、「Headache EP」と7インチ・シングル「Heartbeat」を録音し、翌年にリリースした。1987年、バンドはセカンド・アルバム『ソングス・アバウト・ファッキング』と7インチ・シングル「He's a Whore / The Model」をタッチ・アンド・ゴーからリリースした。
レイプマン時代:1987?1988

アルビニはその後、1987年にスキャンダラスなバンドレイプマンを結成。バンド名はみやわき心太郎による日本の漫画作品『THE レイプマン』に由来する。2枚の7インチ・シングル「Hated Chinee b/w Marmoset」(1988年)と「Inki's Butt Crack b/w Song Number One」(1989年)、1枚のEP「Buddy」(1988年)、そしてアルバム『Two Nuns and a Pack Mule』を同じく1988年にTouch and Goからリリースした後に解散した。
シェラック時代:1992?2024

1992年にはシェラックを結成。アルビニ在籍のシェラックは2024年まで活動を継続しており、5枚のスタジオ・アルバムを発表している。2014年9月に7年ぶりのアルバム『Dude Incredible』をリリースし、2024年5月17日に10年ぶりのアルバム『To All Trains』をリリース予定で、その後ツアーも控えていた[3]
レコーディング・エンジニアとしてサンパウロにて(2008年4月)

ニルヴァーナの『イン・ユーテロ』、ピクシーズの『サーファー・ローザ』を始めとして、ペイジ&プラントスーパーチャンクモグワイスリントドン・キャバレロヘルメットPJ ハーヴェイマニック・ストリート・プリーチャーズメルト・バナナ、ニーナ・ナスターシャ、BORISTHE SLUT BANKSなど国内外を問わず多数のアーティストの作品にエンジニアとして参加している。2007年にはイギー&ストゥージズの34年振りのアルバムをプロデュースした。アルビニは自身が「音楽プロデューサー」と呼ばれることを嫌っており、またアルバムのスリーヴノートに自身の名前はクレジットされない方がいいとコメントしている[4]

シカゴエレクトリカル・オーディオというレコーディング・スタジオを所有しており、本人だけでなく彼のアシスタントであるグレッグ・ノーマンもエンジニアとして活動するときに使用している(グレッグはドン・キャバレロ、サムネイル、90 DAY MEN、ART-SCHOOLの作品を手がけている)。
来日

1992年3月にレコーディング・エンジニアを務めたZENI GEVAとの共演で初来日。1993年11月にシェラックとして、自身のバンドにおいて初めての来日公演を行った。
ポーカープレイヤーとして

2018年「ワールド・シリーズ・オブ・ポーカー」によるセブンカード・スタッドの大会で優勝[5]。2022年の同大会でも2度目の優勝を飾った[6]
死去

2024年5月7日に心臓発作により死去した。61歳没[7][3]
作品
ビッグ・ブラック

Lungs 12"EP (1982年)

Bulldozer 12"EP (1983年)

Racer-X 12"EP (1984年)

Atomizer LP/MC (1986年)

"Il Duce" 7" (1985年)

"Heartbeat" 7" (1987年)

Headache 12"EP (1987年)

Hammer Party LP/MC (1986年)


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