スティーヴン・ソンドハイム
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スティーヴン・ソンドハイム
Stephen Sondheim
1976年頃の写真
基本情報
出生名スティーヴン・ジョシュア・ソンドハイム
Stephen Joshua Sondheim
生誕 (1930-03-22) 1930年3月22日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
死没2021年11月26日(2021-11-26)(91歳)
アメリカ合衆国 コネチカット州ロックスベリー(英語版)
ジャンルミュージカル
職業作曲家、作詞家
活動期間1954年?2021年

スティーヴン・ソンドハイム(英語: Stephen Joshua Sondheim ([?s?nd.ha?m])、1930年3月22日 - 2021年11月26日[1])は、アメリカ合衆国作曲家作詞家[1]。半世紀以上に亘りミュージカル界に貢献していることで知られる[1]アカデミー賞1回、トニー賞8回、グラミー賞8回、ピューリッツァー賞1回、ローレンス・オリヴィエ賞1回のほか、2015年には大統領自由勲章を受章した[1]。トニー賞においては特別功労賞を含み、作曲家で最高の受賞回数となった[2]

ニューヨーク・タイムズ』紙のフランク・リッチは「アメリカのミュージカル界で最高、そしておそらくもっともよく知られた人物」と評している[3]
人物

作詞作曲家としてもっともよく知られた作品は『ローマで起った奇妙な出来事(英語版)』、『カンパニー』、『フォリーズ(英語版)』、『リトル・ナイト・ミュージック(英語版)』、『スウィーニー・トッド』、『Merrily We Roll Along 』、『ジョージの恋人(英語版)』、『イントゥ・ザ・ウッズ』、『アサシンズ 』、『パッション(英語版)』などである。また『ウエスト・サイド物語』、『ジプシー』の歌詞も作詞した。

1981年、ウォーレン・ベイティの映画『レッズ』の曲『Goodbye for Now 』を作曲した。1990年代、映画『ディック・トレイシー』においてマドンナの『Sooner or Later (I Always Get My Man) 』など5曲を作曲し、アカデミー歌曲賞を受賞した。

1973年から1981年、脚本家組合の会長を務めていた。2010年9月15日、生誕80年を祝し、ヘンリー・ミラーズ・シアターはスティーヴン・ソンドハイム・シアターに改名し、BBCプロムスはソンドハイムは敬意を表しコンサートを行なった。プロデューサーのキャメロン・マッキントッシュは「かつてない最高の作詞家であろう」と評した[4]

2021年11月26日、コネチカット州ロックスベリー(英語版)の自宅で死去。91歳没。死因は明らかにされていない[1]スティーヴン・スピルバーグによるリメイク版映画『ウエスト・サイド・ストーリー』世界公開2週間前の死となったが、ソンドハイム自身はすでに鑑賞しており、「一級品」「輝きを放っている」と絶賛したという[5]
生い立ち

ニューヨーク出身[6]ユダヤ人の家庭に生まれた。母エタ・ジャネットがデザインしたドレスを父ハーバートが製造していた[7]マンハッタンアッパー・ウエスト・サイドで育ち、両親の離婚後、ペンシルベニア州ドイルスタウン近くの農場に転居した。メリル・シークレスト著の半生記『Stephen Sondheim: A Life 』によると、セントラルパーク・ウェストにある高層マンションであるサン・レモに住む裕福な家庭の一人っ子として、放任され孤立していた。ニューヨークに住んでいた頃、エシカル・カルチャー・フィールドストン・スクール(ECFS)に通学していた。その後ニューヨーク・ミリタリー・アカデミー(英語版)(陸軍幼年学校の1つ)、ペンシルベニア州バックス郡にある私立のクエーカー学校であるジョージ・スクールに進学し、ソンドハイムにとって1作目のミュージカル『By George 』を執筆し、1946年に卒業した。夏季は何度かキャンプ・アンドロスコッギンで過ごしたことがある[7]

9歳の頃、ブロードウェイミュージカル『Very Warm for May 』を鑑賞し、ミュージカルに興味を持った[8]

10歳の頃、すでに別の女性との間に息子2人をもうけ別居していた父が母のもとを離れた。父はソンドハイムの親権を求めていたが獲得できなかった。半生記によると、「家族になつかず、たとえ裕福で何でも手に入っても人間的な繋がりはなかった。食べ物や温かいベッドもあり友人もいたけれど、兄弟も姉妹もなく親もいなくなった」。

精神的に虐待し[9]、結婚生活の破綻を息子に投影していた[10]母を憎んでいた[11]。記事によると「父が母のもとを去った時、母は私に父を投影していた。優しくしてきたかと思えば、怒鳴り殴った。5年間、母は私をゴミのように扱いながら甘い言葉をかけてきた」[12]。母はソンドハイムへの手紙に「唯一後悔しているのはあなたを生んだこと」と記した[13]。1992年春、母が亡くなったがソンドハイムは葬式に出席しなかった[11][14]
来歴
ハマースタインによる指導1940年頃のハマースタイン

両親が離婚した10歳の頃、作詞家で脚本家のオスカー・ハマースタイン2世の息子ジェイムズ・ハマースタインと友達になった。オスカー・ハマースタイン2世はソンドハイムの代理父となり、深く影響を与えミュージカルへの愛を深めた。ロジャース&ハマースタインの『南太平洋』開幕日、ソンドハイムはのちに自分の作品の多くを演出することとなるハロルド・プリンスと出会った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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