スティール・ホイールズ
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『スティール・ホイールズ』
ローリング・ストーンズスタジオ・アルバム
リリース1989年8月29日
録音1989年3月29日 - 5月5日,
1989年5月15日 - 6月29日
ジャンルロック
時間53 35
レーベルRolling Stones
CBS UK(オリジナル盤)
VirginPolydor(リイシュー盤)
Columbia(オリジナル盤)
Virgin→Interscope(リイシュー盤)
CBS/SONY→Sony Records(オリジナル盤)
EMIJ/Virgin→Universal Int'l(リイシュー盤)
プロデュースクリス・キムゼイ(英語版)
グリマー・ツインズ
専門評論家によるレビュー


Allmusic link

Rolling Stone link

チャート最高順位

ヒットチャートを参照

ローリング・ストーンズ アルバム 年表

ダーティ・ワーク
(1986年)スティール・ホイールズ
(1989年)フラッシュポイント
(1991年)

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『スティール・ホイールズ』(Steel Wheels)は、1989年にリリースされた、ローリング・ストーンズオリジナル・アルバム。イギリスで2位[1]、アメリカで3位[2]を記録。
概要

前作『ダーティ・ワーク』以来3年ぶりのスタジオアルバムで、1980年代に入ってから険悪な仲にあったミック・ジャガーキース・リチャーズの関係が修復され、8年ぶりに敢行されたワールドツアーと共に、ストーンズの復活を印象付けた作品である。本作は、イアン・スチュワートが参加しない(1985年逝去)最初のアルバムであると共に、ビル・ワイマンが参加した最後のアルバムでもある(正式な脱退は1993年)。プロデューサーには、'70年代後半よりバンドの作品に携わってきたクリス・キムゼイが迎えられたが、本作は往年のストーンズの復権ではなく、'90年代型の新たなストーンズの姿を提示したものになった[3]。ストーンズのオリジナルアルバムでは、前々作『アンダーカヴァー』より、LPと並行してCDもリリースされてきたが、本作以降収録時間や曲数が増えたことから、本作は初めてメインフォーマットをCDにした前提で制作されたアルバムと言える。また、通常ケース入りのCDに加え、メタルケース入りのCDや、数多くのシングルCD、リミックスCDがリリースされるなど、様々な形態で発売されるようになったのも本作からである[3]。本作は、2022年現在までバンドのサポートメンバーを務めているバーナード・ファウラーと、2015年までサポートメンバーだったリサ・フィッシャーが初参加したアルバムでもある。なお、フィッシャーが参加したストーンズのオリジナルアルバムは、意外にも本作のみである[4][注 1]。また、ジャガーの実弟であるクリス・ジャガーが、「ブラインデッド・バイ・ラヴ」と「オールモスト・ヒア・ユー・サイ」の2曲で、歌詞編集者としてクレジットされている[5]

本作からは「ミックスト・エモーションズ」、「ロック・アンド・ア・ハード・プレイス」、「オールモスト・ヒア・ユー・サイ」、「テリファイング」がシングルカットされ、特に「ミックスト・エモーションズ」はアメリカのBillboard Hot 100では5位、同Mainstream Rockでは1位を記録するヒットとなった[2]。また「ロック・アンド・ア・ハード・プレイス」は、1990年に大塚製薬ポカリスエット」のCMソングに起用された。なおポカリスエットは、後述するストーンズの初来日ツアーのスポンサーでもあった[6]
経緯

1986年3月にリリースされた『ダーティ・ワーク』に伴うツアーを、ジャガーがチャーリー・ワッツの薬物依存症による不調を理由に断ったことにより、かねてから表面化していたジャガーとリチャーズとの亀裂はさらに深まることになった[7]。以降、ストーンズは解散状態となり、メンバーは各々の活動に移った。ジャガーは直ちに自身2作目のソロアルバム制作に着手し、1987年に『プリミティヴ・クール』を発表、さらにソロでのツアーを行い、このツアーでストーンズでもなしえていなかった日本公演を実現させている。チャーリー・ワッツは、1986年にロケット88やジャック・ブルースを含む28人編成のジャズ・オーケストラ・バンドを結成、ザ・チャーリー・ワッツ・オーケストラ名義で、初のソロ作『ライヴ・アット・フルハム・タウン・ホール』を発表[8]ロン・ウッドは師でもあるボー・ディドリーと共にツアーを行い、1988年にディドリーと連名で『ライヴ・アット・リッツ』をリリースしている。リチャーズもまた、1986年にはアレサ・フランクリンの、バンドの代表作「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」のカバーをプロデュースし、さらにチャック・ベリーのドキュメンタリー映画『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』で音楽監督を務めるなど、ソロ活動に着手した[9]。そして1987年、自身がリーダーとなるバンド、エクスペンシヴ・ワイノーズを結成。1988年にソロ第1作目となるアルバム『トーク・イズ・チープ』をリリースし、さらにワイノーズとしてアメリカ・ツアーも行った[3]

この間にもジャガーとリチャーズは、マスコミを通じて互いに罵倒し合い、ストーンズ解散説は引きも切らなかったが[9]、1988年になると水面下で再始動への動きが少しずつ見られるようになる。同年5月、メンバーは実に2年ぶりに集まり、ロンドンでバンドの将来について会議を行った。この時の会議でメンバーは、来年には新アルバムとツアーを行うことを約束したが、先行きは不透明であった[3]。8月にも、ジャガーとリチャーズがニューヨークのオフィスで対話をしている[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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