この項目では、アメリカ合衆国の作曲家について説明しています。その他の用法については「スティーブン・フォスター (曖昧さ回避)」をご覧ください。
スティーブン・コリンズ・フォスター
Stephen Collins Foster
基本情報
別名アメリカ音楽の父
生誕1826年7月4日
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ローレンスビル
死没1864年1月13日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市
職業作曲家、作詞家
スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)は、ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。20年間に約200曲を作曲し、その内訳は135曲のパーラーソングと28曲のミンストレルソング
である。多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である。「アメリカ音楽の父」とも称される。目次最初の歌曲は1844年に出版された「窓を開け、恋人よ」(Open Thy Lattice, Love)で16歳のときの作品である。翌1845年には弟と友人からなるセーヴル・ハーモニスツ重唱団のために「ルイジアナの美人」、「ネッド叔父さん」などを作曲する。1845年4月にピッツバーグは大火に見舞われ、町の3分の1にもあたる約1000棟の建物を焼失する。
1846年にオハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船海運会社・アーウィン・フォスター商会(Irwin & Foster)で簿記係を務める。当時のシンシナティは、ピッツバーグをしのぐ勢いの多文化社会であり、彼の働く会社の窓の外にはオハイオ川に蒸気船がひっきりなしに行き交い、南部の黒人音楽や荷揚げ作業人夫の労働歌に満ち溢れていた。このシンシナティ在住中に、当時独立戦争後の新大陸で流行した黒人霊歌風である最初のヒット曲「おおスザンナ」を発表。これは1848年?1849年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となった。当時、白人が顔を黒く塗り大げさに歌うミンストレル・ショーやエチオピア風の喜劇役者の魅力に強く引きつけられていたが、その結果が1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』(Foster's Ethiopian Melodies)に結実し、クリスティ・ミンストレルズによってヒットした「やさしいネリー」(Nelly Was A Lady)が収録されている。 同年フォスターはペンシルベニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなった。1850年に、ピッツバーグの名医の長女であるジェーン・マクダウェルと結婚、翌年には娘マリオンをもうけるが、この後に音楽的円熟を見せ「ケンタッキーの我が家」、「主人は冷たい土の中に」、「故郷の人々」(「スワニー河」)の傑作を次々に生む。1853年にフォスターはニューヨークに出てファース・ポンド社
貧困
1864年1月10日、マンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中であったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭部および頚部から大量に出血した状態で倒れているところを作詞家ジョージ・クーパーによって発見され、ベレビュー病院に搬送されたものの3日後の13日に発熱と出血多量で死亡した。数日前から発熱しており、意識朦朧の状態でベッドから起き出し、洗面所に入ったところで平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、その破片で頚動脈を切断されたことが致命傷になったものと推測されている。37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけであった。フォスターの死を知らされた妻ジェニーは遺体と対面するやその場で泣き崩れたと伝えられている。1862年の作品「夢見る人」(「夢路より」)が発表されたのは死後2か月後のことである。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。
特徴 スティーブン・フォスターの彫像(Carnegie Museum of Natural History)
フォスター歌曲の多くは、ミンストレル・ショーの伝統に則り、時流に乗ったが、アフロ・アメリカンの音楽を単にカリカチュアしてみせたというよりも、白人向けに書かれた当時の楽曲には珍しく、黒人奴隷の苦しみに共感を示している。白人作曲家として最初に、睦み合う黒人夫婦を描き出したのがフォスターである。これにより、活動家・フレデリック・ダグラスの称賛を得ることとなる。フォスターの歌曲の多くが南部における日常を扱っているにもかかわらず、フォスター自身は1852年に新婚旅行でニューオーリンズを訪れたのを別とすれば、南部で直接的な経験をしていない。