スティーブン・ダグラス
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スティーブン・A・ダグラス
Stephen Arnold Douglas


アメリカ合衆国上院議員
イリノイ州選出
任期
1847年3月4日 ? 1861年6月3日
前任者ジェームズ・センプル
後任者オーヴィル・H・ブラウニング
アメリカ合衆国下院議員
イリノイ州第5選挙区選出
任期
1843年3月4日 ? 1847年3月3日
前任者無し
後任者ウィリアム・A・リチャードソン
個人情報
生誕1813年4月23日
バーモント州ブランドン
死没1861年6月3日(1861-06-03)(48歳)
イリノイ州シカゴ
国籍 アメリカ合衆国
政党民主党
配偶者マーサ・マーティン
アデル・カッツ
署名

スティーブン・アーノルド・ダグラス(: Stephen Arnold Douglas, 1813年4月23日 - 1861年6月3日)は、アメリカ合衆国西部のイリノイ州出身の政治家。「小さな巨人(Little Giant)」と渾名され、彼は1852年1856年の大統領選挙における民主党候補指名者であった[1]1860年民主党大統領指名候補となるが、1860年アメリカ合衆国大統領選挙共和党候補者のエイブラハム・リンカーンに敗れた。
目次

1 生涯

1.1 生い立ちと教育

1.2 政歴


2 人物

2.1 結婚と家族


3 参照

4 外部リンク

生涯
生い立ちと教育

ダグラスはバーモント州ブランドンでスティーブン・アーノルド・ダグラス (Stephen Arnold Douglass) とサラ・フィスク夫妻の間に生まれた[2]。父親の名前の綴りは「Douglass」であったが、ダグラスは何年か後に自らの名前から2番目の「s」を取り除いた[3]

1833年イリノイ州に転居、旅回りの教師として務め、法律を学び、ジャクソンビルに居を構えた。その年の終わりまでに彼はバーモントの親類に「私は西部の人間になって、西部の気持ちと関心を吸収し、自分の好きな場所としてイリノイを選んだ。」と書き送った。
政歴

ダグラスは1834年モーガン郡の判事に任命され、1836年まで同職を務めた。その後イリノイ州下院議員に選出され、イリノイ州務長官の記録係に任命された。1841年には27歳でイリノイ州最高裁判所の判事に任命された[4]

州の民主党多数派のリーダーとして、彼は連邦下院議員に選出され、1842年1844年の議会に出席した。議会で彼は領土拡大を擁護し、米墨戦争を支持した。1846年には連邦上院議員に選出された。彼は、奴隷制に関する南北の立場をそれぞれ考慮した政治的な取引である1850年協定策定の際に中心的役割を果たした。しかしながら、それにはヘンリー・クレイの支援が必要であった。妥協を含む法案は議会を通過しなかった。各ポイントで別々に多数派の支援があったが、北部人も南部人も結合してそれぞれの理由から法案についての投票を行った。ダグラスは法案を別々に分割することによって通過させ、それぞれのために異なった大部分をとりまとめた[5]

ダグラスは、奴隷制の採否はその領土またはその州の主権を有する人民が自由に決めることができる事項であり、連邦政府や他州の政府の容喙を入れるところではないとして「合衆国領土における人民主権理論」を提唱した。その結果、ニューメキシコ州ユタ州で初めて採用されるに至った。

1854年カンザス・ネブラスカ法制定の際にも、ダグラスは自身の選挙区であるイリノイ州にネブラスカを通る鉄道を通すため、合衆国領土における人民主権理論を主張し、採用されるに至った。これは北部との妥協の産物であるミズーリ妥協を実質的に否定するものであった。そのため、北部を中心に徹底的な抗議運動が起り、農民への公有地無償払下げを党是とする共和党が結成されることになった。

ダグラスはシカゴに移り住み、マーサ・マーティンと結婚した。彼は鉄道の拡大に熱心に取り組み、イリノイ・セントラル鉄道に資金を供給するための公有地供与システムを考案した。


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