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フラウィウス・スティリコ(ラテン語: Flavius Stilicho、 365年 - 408年8月22日[1])は、西ローマ帝国の軍人。 父親は蛮族とされたヴァンダル族出身のローマ軍人、母親はローマ人だった。両親の名前、経歴は全く不明であるが、スティリコは自身が「ローマ人」ではないことは自覚していたらしい。当時、母親が蛮族出身であっても父親が「ローマ人」であれば、その間の子は生まれながらにして「ローマ人」であったが、父親が蛮族出身であれば、その子は蛮族であり蔑まれることは当然と考えられていた。そして蛮族出身という出自はスティリコの人生の節目、節目にその姿を現して、スティリコ自身や政敵の動向を大きく左右し、生涯を終えるまでその呪縛(いわゆる、「半蛮族」、「半ローマ人」というアイデンティティ)に苦しみ、結局はその血統が原因となって世間の不信や政敵達の讒言を招き、非業の死を遂げることになる。 若くしてローマ軍に入り、当時帝国東部を統治していたテオドシウス1世のもとで頭角を表す。このテオドシウスは東西帝国領を治める最後の皇帝となる。384年、テオドシウスの命でサーサーン朝(ペルシア)のもとへ、アルメニア王国の分割に関する和平交渉の使節として赴いた。交渉は成功し、スティリコはテオドシウスの護衛隊長に取り立てられ、西ゴート族からの国土防衛を任される。スティリコの能力を認めたテオドシウスは、姪のセレーナを自分の養女とした上で、彼と結婚させる。二人の間には長男エウケリウス(オイヒュリウス)、長女マリア、次女テルマンティアの1男2女が生まれた。そして392年、ウァレンティニアヌス2世が暗殺されるとテオドシウス1世の元で軍の一翼を指揮し、ローマとの同盟を結んだ西ゴート族の族長アラリック(後のアラリック1世)とともにフリギドゥスの戦いで勝利を収める。奮闘したスティリコは西ローマ帝国の防衛の責任に足りうる人物としてテオドシウスから認められ、高位の軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の一人として任命された。 394年に主君テオドシウス1世が東西ローマを統一すると、テオドシウスによってローマ軍の総司令官(マギステル・ウトリウスクァエ・ミリタエ この年、前述のアラリックが正式に王として即位、アラリック1世となりローマとの同盟を破棄してトラキアで略奪を行ったため、スティリコは東西ローマ軍を率いてメディオラヌムを包囲した西ゴートの軍を撃退する。続いてスティリコはテッサリアでアラリックの軍勢を叩こうと進軍したが、アルカディウス帝の側近、親衛隊長官であったルフィヌス
生涯
出自
テオドシウスの側近として
ローマ軍司令官として