スター誕生!
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この項目では、日本テレビ系列で放送されていたオーディション番組について説明しています。その他の用法については「スター誕生」をご覧ください。

スター誕生!
番組の公開収録が行われていた後楽園ホール
別名スタ誕
ジャンル音楽番組/バラエティ番組
構成河村シゲル、鈴木しゅんじ・詩村博史(パジャマ党)/ 萩本欽一ほか
ディレクター宮嶋章
吉岡正敏

監修阿久悠
司会者萩本欽一
岩谷隆広
タモリ
坂本九
石野真子
横山やすし
西川きよし
若松愛子
出演者別項
審査員別項
製作
チーフ・プロデューサー池田文雄
プロデューサー金谷勲夫

制作日本テレビ

放送
音声形式ステレオ放送(1982年10月以降)
放送国・地域 日本

55分番組時代
放送期間1971年10月3日 - 1982年3月28日
放送時間日曜 11:00 - 11:55
放送分55分

45分番組時代
放送期間1982年4月4日 - 1983年9月25日
放送時間日曜 11:00 - 11:45
放送分45分
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『スター誕生!』(スターたんじょう!)は、1971年10月3日から1983年9月25日の12年間に亘って放送された、日本テレビ視聴者参加型歌手オーディション番組である。略称は「スタ誕」(スタたん)。全619回。

途中、1982年10月24日放送分でタイトルを『新・スター誕生!』と改め、同時にモノラル放送からステレオ放送へと移行したが、1983年4月3日からは正式タイトルを『スター誕生! ?全国選抜歌の選手権?』と改めた(ステレオ放送についてはそのまま継続)[1]
概要

番組の企画者は審査員の一人でもある阿久悠で、日本テレビ側の一般家庭で普及し始めたカラーテレビの特性を生かして[注 1]、「テレビマンの手でスターを生み出したい」との思い[2]も相まって1971年に『スター誕生!』が始まった。番組名の名付け親はチーフプロデューサー池田文雄である[3]。公開オーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競う。

同じネット局のよみうりテレビ全日本歌謡選手権』(『スタ誕』より先に番組開始)や、兄弟番組である日本テレビ『お笑いスター誕生!!』と共に実力勝負が要求された。
放送時間と視聴率

『スタ誕』のプロデューサーだった金谷勲夫によると、番組開始にあたり「全くの素人をスターに育てるには時間が必要で、番組がすぐに打ち切られては意味がない」と考えた[注 2]。そこで視聴率をゴールデンタイムの番組ほど求められない、「日曜午前11時」枠でやることが決まった[4]。 

1982年3月28日までは毎週日曜 11:00 - 11:55 に放送されていたが、同年4月4日以降は『NNN昼のニュース』の放送時間繰り上げによって10分縮小し、11:45までの放送となった。また、一部のネット局では放送日時が異なっていた。1978年からは『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』放送時に休止となった。

初回の視聴率は4.7%だったがその後視聴率が上昇し始め、1978年5月7日放送分では番組史上最高の28.1%をマークした(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
番組の方向性

1971年10月3日に『スタ誕』の放送を開始したものの、当初は「NHKのど自慢」のように小学生から70代までの歌自慢の老若男女が参加したため、番組側はどういう基準で合格者を選ぶかを迷っていた。そんな中10月下旬に現れたのが当時13歳の森昌子で、初代グランドチャンピオンになるとその後デビュー曲の『せんせい』が大ヒットした。この森の成功が呼び水となり、「自分もプロの歌手になれるかも」と考えた中高生を中心とする若者の『スタ誕』への応募が増え始め、その後の『スタ誕』の方向性を決定づけた[4]。その後『スタ誕』の参加者層は主に10代の年齢層となり、「NHKのど自慢」とは参加者層でも棲み分けされるようになった。
出演者
司会者

初代:
萩本欽一(1971年10月3日 - 1980年4月6日[第443回]) - 当時コント55号で人気絶頂期だった萩本にとって、本格的にテレビでのソロ活動、かつ司会初挑戦だった[注 3]。萩本は司会のオファーを受けると「(一人で)司会なんてしたことないの」と語っている。スタッフの説得により引き受けることになったが、当初萩本は1クールだけのつもりだったという[注 4]。オープニングは必ず客席から登場し、「皆さんおはようございます。会場の皆さん、おはよう!!」と視聴者・客席に呼び掛け、それに応えて観客も「おはよう!!」と叫ぶところから番組が始まっていた。本番では審査員たちが辛口な審査をしたため、萩本はいつも“参加者を応援する立場”を意識しながら司会進行したという[5]

2代目:谷隼人タモリ(1980年4月13日 - 1981年3月22日) - 谷は出演当時「岩谷隆広」名義だった。タモリは兄弟番組である『お笑いスター誕生!!』にも審査員として出演していた。なお、タモリは後年の同窓会(後述)で「ほとんどつなぎの様なものでしたねぇ」と語っている。

3代目:坂本九石野真子[注 5](1981年4月12日 - 1982年1月3日) - 石野は『スタ誕』デビュー組の歌手。石野にとって『スタ誕』の進行役は気苦労が多く[注 6]、坂本のリードに支えられ何とか役目を務めていたという[6]。その後石野は結婚による芸能界一時引退のために、1981年9月6日放送分をもって降板した。

4代目:横山やすし・西川きよし(1982年1月10日 - 1983年9月25日) - 当初はきよし若松愛子と共に1982年3月21日放送分まで担当し、後に単独で務めた。やすしは1982年10月24日放送分から出演。

審査員
萩本、谷・タモリ、坂本(・石野)時代

松田トシ(松田敏江) - 歌手・声楽家

阿久悠 - 作詞家

中村泰士 - 作曲家

都倉俊一 - 作曲家

三木たかし - 作曲家

森田公一 - 作曲家

当初、松田・阿久・中村はレギュラーで座り、残りの2名は外部の作詞家・作曲家レコード会社ディレクター芸能雑誌明星」「平凡」の編集記者が交互に登場していた。途中から都倉、三木が加入し、審査もより厳正になった。なお、中村は一時期降板して森田に交代したが、三木の完全な降板とともに復帰した。

都倉が審査員になったのは、三鷹市民会館で行われた第9回の収録に諸事情で欠席することになった阿久のピンチヒッターとして出たのが最初[注 7]


きよし単独時代

司会のきよしは以下の人物を「評議員」と呼んでいた。

小林亜星 - 作曲家

ジェームス三木 - 作家・脚本家

大本恭敬 - ボイストレーナー、作曲家

服部克久 - 作曲家・編曲家

大林宣彦 - 映画監督


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