スターリング・ヘイドン
Sterling Hayden
1953年
本名Sterling Relyea Walter
生年月日 (1916-03-26) 1916年3月26日
没年月日 (1986-05-23) 1986年5月23日(70歳没)
国籍 アメリカ合衆国
身長1.96m
配偶者Madeleine Carroll (1942-1946)
Betty De Noon (1959)
Catherine Devine McConnell (1960-1986)
主な作品
『アスファルト・ジャングル』
『大砂塵』
『現金に体を張れ』
『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』
『ゴッドファーザー』
『ロング・グッドバイ』
『9時から5時まで』
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スターリング・ヘイドン(Sterling Hayden、1916年3月26日 - 1986年5月23日)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州出身の男優。196cmの高身長で知られた。 生まれた時の名前はスターリング・レルイエア・ウォルター(Sterling Relyea Walter)だった[1][2] が、父と死別し、母が再婚したことから、以後継父の姓であるヘイドンを名乗ることになる。銀行のメッセンジャーボーイ、船員、消防士などの職を転々とし、友人の紹介でパラマウント・ピクチャーズと俳優として契約を結ぶ。デビュー時のキャッチコピーは「映画史上最も美しい男優」だったが、彼自身は映画界に長くとどまるつもりはなかった。 第二次世界大戦中、ヘイドンは戦略情報局(OSS)のエージェントとして活動した。OSS長官ウィリアム・ドノバンは、船員として働いていた頃に偶然出会って以来の友人だった。1941年、2本の映画に出演した後、ヘイドンは映画界から離れ、ドノバンを通じてスコットランドにあるブリティッシュ・コマンドス訓練課程への参加を志願した。彼はこの訓練課程への参加が認められた唯一のアメリカ人であり、また一切事前の訓練を受けていない唯一の「素人」であった。降下訓練中に負傷し帰国を余儀なくされると、ヘイドンは海兵隊に志願した。この際、俳優の売名目的の入隊と軽んじられることを避けるため、ジョン・ハミルトン(John Hamilton)の偽名を使った。海兵としての基礎訓練の後、船員としての経験を活かせる道を模索し、ドノバンにCOI(OSSの前身)への配属を申し出た。1943年にはエージェントとしてコルチュラ島に派遣され、ヨシップ・ブロズ・チトー指揮下のパルチザンの援護に当たった。この任務での功績のため、銀星章を受章している[3]。 戦後、マッカーシズムが台頭して下院非米活動委員会が結成され、ハリウッドにおける共産主義者のリストアップを開始すると、大戦中にチトーなど共産主義者たちと交流を持っていたヘイドンにも追及の手が伸びる。大戦中のヘイドンは共産主義を強く支持していたものの、後には共産主義者に「騙されて」いたのだと認めている[3]。ヨットを購入した借金の返済をするために映画界への復帰を願っていたヘイドンは、追及をのがれるために協力的密告者として証言台に立ち、そのことが後の彼の人生に暗い影を落すことになる。 ターザン役をオファーされるが断り、ジョン・ヒューストン監督の『アスファルト・ジャングル』に主演。以後、1950年代アメリカ映画を象徴するフィルム・ノワールと西部劇のスターとして活躍するようになり、スタンリー・キューブリックやニコラス・レイといったこの時代を代表する監督たちの作品にも主演した。
略歴