この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "スターリングラード戦線"
スターリングラード戦線(ロシア語: Сталинградский фронт、スターリングラード方面軍、もしくはスターリングラード正面軍とも)は、第二次世界大戦中の独ソ戦中期に2度にわたりソ連のスターリングラード地域に設置された赤軍の方面軍級部隊である。 最初のスターリングラード戦線は、1942年7月12日、廃止された南西戦線(戦線の指揮機関、第21軍、第8軍)、並びに最高司令部スタフカ予備(第62軍、第63軍、第64軍)から編成された。事後、第28軍、第38軍、第57軍、第51軍、第66軍、第24軍、第1戦車軍、第4戦車軍、第16航空軍が配属され、ヴォルガ小艦隊とスターリングラード軍団防空地区が作戦統制下に入った。 南西方面でのドイツ軍の戦線突破と関連して、スターリングラード戦線は、敵のヴォルガへの進出の阻止、パヴロフスからクレツカヤまでのドン川沿い、クレツカヤ?スロヴィキノ?スヴォロフスキー?ヴェルフニェクルモヤルスカヤのラインの防衛を担当した。 1942年7月17日、ドイツ第6軍の前衛部隊が、ソ連軍第62軍および第64軍の先遣部隊と交戦、スターリングラード攻防戦が始まった。6日後、ドイツ第6軍主力が展開し、2週間後、ドイツ第4装甲軍がスターリングラード方面に投入された。 防衛地帯の拡大(約800km)と関連して、8月7日、戦線は、スターリングラード戦線(第63軍、第21軍、第62軍、第4戦車軍、第16航空軍)と南東戦線に分割され、8月10日、スターリングラード戦線は、南東戦線司令官の配下に入った。9月28日付スタフカの命令により、両戦線の統一司令部が廃止され、9月30日、スターリングラード戦線はドン戦線に、南東戦線はスターリングラード戦線に改称された。 司令官: 軍事会議議員: 参謀長: 2度目のスターリングラード戦線は、1942年9月30日、第28軍、第51軍、第57軍、第62軍、第64軍、第8航空軍から編成された。同年12月、第5打撃軍、第2親衛軍が配属された。 1942年7月?11月、戦線部隊は、南東戦線及びドン戦線と協同で、防勢行動を取り、攻勢転移のための前提条件を創出した。11月20日、スターリングラード戦線は、攻勢に転移し、11月23日、南西戦線部隊と協同で、ヴォルガとドンの間に敵集団を包囲した。12月12日?30日、コテリニコフ作戦を行い、敵の包囲解除の試みを撃退し、敵集団を撃破した。 1942年12月31日、12月30日付のスタフカの命令に基づき、スターリングラード戦線は廃止され、これに基づき南部戦線が設置された。
スターリングラード戦線(1941年7月?9月)
編制
第21軍 - 1942年7月12日?
第8軍 - 1942年7月12日?
第62軍 - 1942年7月12日?
第63軍 - 1942年7月12日?
第64軍 - 1942年7月12日?
第28軍
第38軍
第57軍
第51軍
第66軍
第24軍
第1戦車軍
第4戦車軍
第16航空軍
指揮官
セミョーン・チモシェンコソ連邦元帥(1942年7月)
ワシーリー・ゴルドフ中将(1942年7月?8月)
アンドレイ・エリョーメンコ大将(1942年8月?9月)
ニキータ・フルシチョフ ウクライナ共産党中央委員会第一書記(1942年7月?9月)
P.ボジン中将(1942年7月)
D.ニキシェフ少将(1942年7月?9月)
K.コヴァレンコ少将(1942年9月)
スターリングラード戦線(1942年9月?12月)
編制
第28軍 - 1942年9月30日?
第51軍 - 1942年9月30日?
第57軍 - 1942年9月30日?
第62軍 - 1942年9月30日?
第64軍 - 1942年9月30日?
第8航空軍 - 1942年9月30日?
第5打撃軍 - 1942年12月?
第2親衛軍 - 1942年12月?
指揮官
司令官:アンドレイ・エリョーメンコ大将(1942年9月?12月)
軍事会議議員:ニキータ・フルシチョフ ウクライナ共産党第一書記(1942年9月?12月)
参謀長:ゲオルギー・ザハロフ少将(1942年9月?10月)、I.ヴァレンニコフ少将(1942年10月?12月)
関連項目
南東戦線 (ソ連軍)
ドン戦線 (ソ連軍)
スターリングラード攻防戦
外部リンク
60 лет Победе(ロシア語。戦勝60周年に宛てられたロシア国防省公式のHP)
Size:12 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef