スターシュート
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スターシュート

欧字表記Star Shoot
品種サラブレッド
性別
毛色栗毛
生誕1898年
死没1919年11月19日
Isinglass
母Astrology
母の父Hermit
生国 アイルランド
生産者Eustace Loder
馬主Eustace Loder
調教師John Huggins
競走成績
生涯成績10戦3勝
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スターシュート(Star Shoot、1898年 - 1919年)とは、アイルランドで生産されたサラブレッド競走馬である。のちにアメリカ合衆国種牡馬となり、初代アメリカ三冠馬サーバートンなどの父となるなどの成功を収めた。
経歴
出生

1898年の春に、アイルランドにあるエアーフィールドロッジスタッドで生まれたサラブレッドである。優美なたてがみを備えた栗毛の馬体で、後脚2本に靴下のような大きめの白斑を持っていた。父はイギリス三冠馬アイシングラスで、同馬はその2世代目にあたる馬であった。

スターシュートは生まれて間もなくウイルスに侵され、その命が危ぶまれていた。生産者で同馬の所有者であったユーステイス・ローダーもこの仔馬が長く持たないと思っていたが、同牧場の馬丁であったダン・マクナリーが手厚い看護を施し、その後競走馬としてデビューできるまでに回復させた。マクナリーはスターシュートを毛布で包み、馬具室の焚火の前で添い寝をしながら、他の馬丁らととりとめのない会話をしてその時間を過ごしていたという。
競走馬時代

2歳になったスターシュートはジョン・ハギンズ調教師に預けられ、そこで競走馬としての手ほどきを受けた。競走馬としてのデビュー戦は1900年6月6日、マンチェスター競馬場で行われたサマーブリーダーズフォールズプレート(Summer Breeders' Foal Plate)であった。初の出走にも拘らず、実績馬であったプリンセスメルトンという馬から1馬身だけ離された2着に食い込んでいる。

その8日後にはアスコット競馬場に赴き、出走したニューステークス(New Stakes)では勝ち馬ベイメルトンに遅れること3着に終わった。それから9日後の6月23日、サンダウンパーク競馬場のブリティッシュドミニオン2歳プレート(British Dominion Two-Year-Old Plate)において、スターシュートは初勝利を挙げた。

それから1週間後のハーストパークフォールプレート(Hurst Park Foal Plate)では134ポンドを積まれながらも勝ちを挙げ、その次走アークロイヤル(Arc Royal)でも2着に入った。その後7月後半まで休養を入れ、復帰明けに登録されたのがサンダウンパークの大一番、ナショナルブリーダーズプロデュースステークス(National Breeders' Produce Stakes)であった。ジョニー・リーフを鞍上に迎え、それまでの最高斤量となる135ポンドを積んでの出走となったが、最後には以前に敗れたベイメルトンを3着に破って、126ポンドの軽ハンデ馬・イアンと同着で優勝を手にした。

しかしこの優勝を最後に、スターシュートは勝ちからどんどんと遠ざかっていくことになる。翌戦のチャンピオンブリーダーズビニアルフォールステークス(Champion Breeders Biennial Foal Stakes)では牝馬サジッタに敗れて初の着外を喫し、シャンペンステークスではオーキッドという馬に敗れて3着に終わった。ニューマーケット競馬場で行われた2歳戦の大一番・ミドルパークプレートでは善戦したが、勝ち馬フロリフォームと2着馬オーキッドにクビ差で敗れて3着でその年を終えた。

翌年にはクラシック戦線への出走が見込まれていたが、冬の頃になってスターシュートの息遣いがおかしくなり、競走能力への影響が危惧された。このため3歳シーズンの初戦は夏までずらされ、クラシックは断念せざるを得なかった。しかし、休養明けに出走したトリエニアルステークス(Triennial Stakes・アスコット)では着外、次のミッドサマーダービー(Midsummer Derby・ニューマーケット)でも着外に沈んだ。

スターシュートはミッドサマーダービーで敗れたのを最後に、競走生活を引退した。生涯成績は10戦3勝・2着1回であった。
引退後
種牡馬になるまで

引退後は牧場に戻り、そこで種牡馬となるはずであった。しかし、スターシュートが呼吸疾患を持っていることはイギリス中の生産者たちにもすでに広く知られており、かつてのオーモンド同様にその症状が産駒に遺伝することが危惧され、イギリスでの種牡馬としてのは非常に困難であった。またスターシュートは脚の弱さが指摘されており、これもまた敬遠される要因となった。こちらの特徴は呼吸器疾患と違って、実際に産駒に遺伝している。

さらにこの当時、オーストラリアの血統研究家ブルース・ロウが研究発表したファミリーナンバーの概念が生産界にも伝えられていた。それによれば、スターシュートの属する9号族(後に9-f分枝に分類される)は名種牡馬の出ない牝系であり、つまりスターシュートが種牡馬として成功しないことが予測されていた[1]

このような要因からイギリスでの種牡馬入りは困難なものとなり、結果としてスターシュートはアメリカ合衆国へと輸出されることになった。1901年、ジョン・ハニングという人物の手によって一度買い取られて輸出の段取りが組まれ、ケンタッキー州パリのラニーメードファームへと送られた。
種牡馬としての成功

1902年より供用開始され、この初年度産駒から早くも成功を収めた。1908年にはアメリカの上位種牡馬20頭のリストにランクインし、以後1923年までリストから漏れることがなかった。そして1911年には初のアメリカリーディングサイアーを獲得、その後1912年・1916年・1917年・1919年にもリーディングを獲得している。リーディングを取れなかった年も、2位(1914年・1915年・1921年)や3位(1913年・1918年)などの好位を常に保つ堅実な成績を収めた。

スターシュートは用意された繁殖牝馬の質と関係なしに有能な競走馬を量産した。産駒も牡馬・牝馬ともに活躍し、また短距離や芝などあらゆる方面で大成した産駒を出したことも成功の要因であった。2歳戦に強い産駒も多く、供用時は常に2歳リーディングサイアーを保ち続けた。ラニーメードファーム時代に生産された主な産駒に、ケンタッキーオークス勝ち馬のウィングティングなどがいる。

スターシュートは1912年11月にジョン・エドワード・マッデンによって買い取られ、マッデンの持つハンバーグプレイスファームへと移動した。ラニーメードファーム時代は毎年平均で28頭の種付けを行っていたが、規模の大きなハンバーグプレイスでは種付け頭数が激増し、移籍翌年だけでも90頭の種付けをこなし、52頭の産駒を出している。この52頭のうち36頭が勝ちあがり、うち11頭がステークス競走勝ち馬となっている。スターシュートが生涯で送りだしたステークス競走勝ち馬61頭のうち、34頭がマッデンのもとで生産されたものであった。
代表的な産駒
ウィングティング
Wing Ting、1904年生、牝馬、母ヴァンアクララニーメードファームで供用されていた最初期の生産馬で、1907年のケンタッキーオークスに優勝した。繁殖牝馬としては産駒をほとんど出すことができなかったが、牝馬の一頭メアリーベルから先の牝系にはステークス競走勝ち馬を数頭出している。
ケンタッキーボー
Kentucky Beau、1904年生、せん馬、母ケンタッキーベル母ケンタッキーベルはラニーメードファームに繋養されていた牝馬で、
ハノーヴァーの全妹にあたる馬であった。ケンタッキーベルはスターシュートとの4度交配され、4頭の牡馬を出している。ケンタッキーボーはその4頭の中での出世頭で、シャンペンステークスやディキシアナステークスなどステークス競走4勝を挙げた。ただ兄弟揃っていずれも去勢されており、これらが種牡馬となることはなかった。
アンクル
Uncle、1905年生、牡馬、母ザニースラニーメードファーム時代にマッデンが種付け依頼をして配合させた馬で、生産者名義はマッデンのものである。綺麗な栗毛の馬体を父から受け継いだが、一方で脚の弱さも受け継いでおり、競走能力に大きな支障をきたしていたという。1歳時にサム・ヒルドレス調教師に30000ドルで売られて競走馬となった。同期はコリンやケルト、フェアプレイなどの後の名馬がひしめく世代であったが、アンクルは2歳時のサラトガスペシャルで後の最強馬コリンに1馬身差まで迫っての2着[2]に健闘した。しかしそれから数日後の調教中に故障し、翌年の秋まで復帰に向けて取り組まれたものの、結局出走できずに引退した。生涯成績は12戦7勝。
スターチャーター
Star Charter、1908年生、牡馬、母チャータークイーン母チャータークイーンはラニーメードファームに繋養されていた牝馬で、牝馬ジャコネットの2x2(半兄妹同士の配合)という強烈なインブリードを持つ馬であった。3歳時にはクラークハンデキャップやラトニアカップ、4歳時にはウッドバイン競馬場のオータムハンデキャップなどを制し、その年の賞金王に輝いた。せん馬ではなかったが、記録上は種牡馬として産駒を残していない。
エディーエム
Addie M.、1911年、牝馬、母ブレイクウォーターラニーメードファーム時代に出した最後の大物で、1914年のアラバマステークスに優勝した。半姉にランニングウォーター(1903年生・父サーディクソン)もアラバマステークスを勝っており、姉妹での制覇という珍しい例になった。このほかにもエクセルシオールハンデキャップ連覇など、ステークス競走5勝を挙げている。繁殖牝馬としては仔出しが悪く、成績はほとんど挙がらなかった。
ウィストフル
Wistful、1914年生、牝馬、母ウィットフルハンバーグプレイスファームでの初年度産駒の一頭で、第1回コーチングクラブアメリカンオークスに優勝した。


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