スタン・ハンセン
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スタン・ハンセン
2015年
プロフィール
リングネームスタン・ハンセン
スタン "ザ・ラリアット" ハンセン
"バッドボーイ" スタン・ハンセン
スタン "ザ・マン" ハンセン
本名ジョン・スタンリー・ハンセンII世
ニックネーム不沈艦
ブレーキの壊れたダンプカー
テキサスの暴れん坊
テキサス・ロングホーン
身長192cm - 194cm
体重135kg - 140kg
誕生日 (1949-08-29) 1949年8月29日(74歳)
出身地 アメリカ合衆国
テキサス州
ノックス郡ノックスシティ
所属全日本プロレス
スポーツ歴アメリカンフットボール
トレーナードリー・ファンク・シニア
ドリー・ファンク・ジュニア
テリー・ファンク
デビュー1973年1月1日
引退2001年1月28日
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スタン・ハンセン(Stan Hansen、本名:John Stanley Hansen II、1949年8月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーテキサス州ノックスシティ出身。デンマーク系アメリカ人

日本で最も成功したといわれる外国人レスラーの1人。第32代AWA世界ヘビー級王者。第2代PWF会長。なお、現夫人は日本人で息子が2人いる[1]。また、ラリアットを生み出した人物でもある。
来歴
出生から来日まで

ウエスト・テキサス州立大学卒業後、プロフットボール球団のボルティモア・コルツ(現インディアナポリス・コルツ)、サンディエゴ・チャージャーズに入団するが、最終的に解雇され、故郷の中学校で教鞭を執った[2]。その頃、大学のフットボール部の先輩であった旧知のテリー・ファンクから声がかかり、プロレスにスカウトされた(当時ハンセンは教職の収入面に不満を持っており、スカウトに快諾した)。1973年1月1日、アマリロ地区にてプロレスラーとしてデビュー。同地区では若手時代のジャンボ鶴田ボブ・バックランドとも邂逅した。

以降、フロリダ地区などを転戦してキャリアを積んだ後、ミッドサウス地区でフランク・グーディッシュとのタッグチームで活動。1974年10月10日にUSタッグ王座を獲得し[3]、初戴冠を果たす。その後、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラス地区を経て、1976年上期にWWWFに登場。同年4月26日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて、当時のWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を骨折させた事件(実際は後述のとおり、ハンセンがボディスラムを失敗したことによる重度の頸椎捻挫であったが、ウエスタン・ラリアットによるものとして宣伝された)で有名になった。この一件後、ハンセンはサンマルチノとの遺恨劇でWWWFのリングを賑わせるが、以降はクラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなった。
来日後

日本初参戦は1975年9月の全日本プロレス。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった(対戦相手は当時全日本のNo.3だったザ・デストロイヤー)。ジャイアント馬場ギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、馬場のハンセンに対する本音は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。

サンマルチノ戦後の1977年1月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦。同年秋の再来日からはシリーズの外国人エースを務め、9月2日に愛知県体育館にてアントニオ猪木NWFヘビー級王座に初挑戦。9月29日には大阪府立体育館にてザ・ハングマンをパートナーに、坂口征二&ストロング小林北米タッグ王座にも挑戦した[4]

以降、新日本プロレスの主力外国人選手となり、1979年の「第2回MSGシリーズ」ではアンドレ・ザ・ジャイアントを抑えて猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した[5]

1980年9月25日の広島県立体育館大会では、ハンセンがウエスタン・ラリアットを放つ寸前で猪木がラリアットを放ったことから「0.X秒差の逆ラリアート」と呼ばれるドラマを生み[6][7]、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日本プロレスのトップ外国人レスラーとなった。またハルク・ホーガンとの強力タッグも話題を集めた。

その圧倒的な強さは、当時のテレビ朝日実況アナウンサー古舘伊知郎により、「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」などと形容された。当時のアメリカではジョージア州を主戦場に活躍する一方、1981年には再びニューヨークWWFに参戦。MSG定期戦において旧友ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる同年4月6日の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)[8]

ハンセンはその後、1981年の「第4回MSGシリーズ」、8月シリーズ、「第2回MSGタッグ・リーグ戦」に参戦。8月シリーズ最終戦である9月23日には田園コロシアムにおいて、アンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。この一戦を見ていた7、8人の観客がハチに刺されたが、観客はそのまま医務室に行かず最後まで試合を見届けたという逸話がある[9]。「第2回MSGタッグ・リーグ戦」にはディック・マードックとのコンビで出場した。しかし、新日本プロレス関係者は「第4回MSGシリーズ」以降、全日本プロレスによるハンセン引き抜き工作がすでに行われていた事を知る由もなかった[10][11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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