スタンレー・カップ
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Stanley Cup

スポーツアイスホッケー
選考会Stanley Cup playoffs
受賞対象ナショナルホッケーリーグ (NHL)プレーオフ優勝チーム
歴史
初回1893
初回受賞Montreal Hockey Club (4) (AHAC)
最多受賞モントリオール・カナディアンズ (24)[1]
最新受賞ゴールデンナイツ (1)
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スタンレー・カップ(Stanley Cup、 旧名Dominion Hockey Challenge Cup)は、NHL(北米プロアイスホッケーリーグ)において、プレーオフトーナメントの優勝チームに与えられる賞(トロフィー、カップ、杯)のことである。

トロフィーの構造は、最上部にカップ(杯)があり、そのカップを何層かの金属製のリング(又はバンド)が支えている(金属製のバンドの層の数は時代によって変遷する。)。トロフィー全体の高さは、880 mm (35 1/4 インチ)、重さは 14.6 kg (32 lb) である(2005年現在の数値)。

トロフィーの上部についた杯は、実は2つ存在する。1つは、長年の風雪で老朽化した実物で、1970年からオンタリオ州トロントホッケーの殿堂に展示されている。もう一つは、1960年代中盤にモントリオールの鍛冶屋カール・ピーターセンが製作した複製品で、プレイオフ優勝チームに授与されたり、広告宣伝活動に用いられたりするものである。また、下部のバンドも古いものは順次取り替えられて、ホッケーの殿堂に保管されている。

もっとも「スタンレー・カップ」との言葉を慣用的に用いる場合には、

前述のとおり物としてのトロフィー又はカップ(杯)そのものを指すときのほかに、

NHL(及びNHL発足以前のアイスホッケー界)における優勝(ないしは優勝チーム決定までの道程)を象徴的に表すとき、

があり、以下では、特に混同の恐れがない限り両者を区分していないので、文脈により判断されたい。
歴史スタンレー卿

スタンレー・カップは、もともとはロンドンの鍛冶屋から10ギニー(当時の貨幣価値で、50ドルと等価)で購入された装飾用の椀であり、1892年に、アイスホッケーに魅了された時のカナダ総督スタンレー卿 (Frederick Arthur Stanley, 16th Earl of Derby) によって寄贈されたものである(もっとも、アイスホッケーにより熱心だったのは、スタンレー卿の妻レディ・コンスタンス・スタンレー[2]とその息子達だったとする説も存在する)[3]
チャレンジカップの時代

元来このカップはカナダにおけるアマチュアのトップチームに授与された賞であり、その受賞チームは、カップを保持するチーム及びカップ管理者 (trustee) が他チームからの挑戦 (試合の申し込み) を承諾し対戦することによって決定された。

スタンレー卿は、このカップに関して、次のようないくつかの仮規則を定めた。

カップは、チャンピオンが所属するリーグの選手権を顕すものとしての機能も果すこと。

カップは、授与されたチームの財産とはならないこと。

カップ管理者は、どのチームがカップ保持者となるかについて争いがある場合には、その最終決定権限をもつこと。

カップに対する挑戦チームは、その所属するリーグの優勝者でなければならないこと。

カップ挑戦試合(リーグが異なる場合)の勝利は、関係する両チームの都合にあわせて、1試合で決するか、2試合の合計ゴール数で決するか、または、3試合で勝ち星の多いチームで決するかとすること。挑戦試合は、開催日時についてはカップ管理者の承諾を得なければならないが、試合のすべてはチャンピオンチームのホームにて行うものとすること。

試合のチケット収益は、両チームで等しく分配すること。

各リーグは1シーズンにつき、1度しかカップに挑戦することはできないこと。

カップ優勝チームは、カップ管理者からの求めに応じて、カップを良好な状態で返還する義務を負うこと。

カップ優勝チームは、自らの勝利を記念するためにカップに銀のリングを付け加える権利を有すること。

こうして、1893年にカップは、当時カナダ最高のホッケーリーグであったアマチュアホッケー協会 (AHA, Amateur Hockey Association) の優勝チーム、モントリオールAAA (Montreal AAA) に対して最初に授与された[4]。もっとも、当のスタンレー卿自身は、1893年7月15日に本国の兄の死亡を基因として、同年9月までのカナダ総督の任期を待たずしてイングランドに帰還した。

1894年3月17日、初のスタンレー・カップのプレイオフ試合が開催された。そして同年3月22日には、初めてカップが観客席から目の届く場所に配置して試合が行われた。

この年は、AHA所属の5チームのうち4チームが5勝3敗でリーグ成績タイで首位に並んだ。この当時同点決勝の制度が存在しなかったことから、AHAの理事 (governor, trustee) 達は、どのチームを優勝とするかに頭を悩ませた。長い協議の後、ケベックチームの選手権試合辞退もあって、モントリオールで3チームによるトーナメント戦が行われることとなった。決勝では、唯一のアウェイチームであったオタワチームが敗北し、第1回スタンレー・カップ決勝戦は、3勝1敗の成績でモントリオールAAAが防衛戦に成功することとなった[5][6]

1895年は、オンタリオ州キングストンにあるクイーンズ大学 (Queen's University) が、初のカップ挑戦チームとなった。しかし、これについてはいろいろと問題があった。1895年3月8日には、モントリオール・ヴィクトリアズ (Montreal Victorias) がリーグタイトルを得て、同時にスタンレー・カップを獲得するのであるが、これに対する挑戦試合は、既にその翌日(3月9日)に行われることが予定されており、前年度優勝チームと大学チームとの間で行われることが決められていた。したがって、理事会は(前年度優勝者の)モントリオールAAAが挑戦試合に勝利を収めれば、モントリオール・ビクトリアズがスタンレー・カップの優勝チームとなるという判断を下した。そして、結果的に挑戦試合では5対1でモントリオールAAAが勝利を収める一方で、隣町のライバルチーム、モントリオール・ビクトリアズがスタンレー・カップ優勝チームとなったのである[7]

翌年には、マニトバ・ホッケーリーグ (Manitoba Hockey League) の優勝チームであるウィニペグ・ヴィクトリアズ (Winnipeg Victorias) が、挑戦試合初の成功チームとなった。すなわち、1896年2月14日にウィニペグチームは、前回覇者のモントリオール相手に2対0の勝利を収め、AHA以外のチーム初のスタンレー・カップ獲得を果した[8]。しかしながら、ウィニペグの覇権も長くは続かなかった。モントリオール・ヴィクトリアズは、AHAで優勝を決めた後にウィニペグに対してカップを賭けた再挑戦試合の申し込みを行い、1896年12月30日に6対5で雪辱を果したのであった[9]

1897年には、AHA優勝チームのモントリオール・ヴィクトリアズに対し、中央カナダホッケー協会 (CCHA、Central Canada Hockey Association) の覇者オタワ・キャピタルズ (Ottawa Capitals) の挑戦試合が、カップ初の3回戦方式で行われることが予定されていた。しかし、このシリーズは、第1試合でヴィクトリアズが明らかに格の違いを見せ付ける15対2の勝利を収めると、第2試合以降は中止となった[10]

1899年にも3回戦方式が行われたが、このシリーズではレフリーの判定に疑義が起こってウィニペグ・ヴィクトリアズは第2試合を没収試合とされ、カップ優勝も取り消されることとなった。こうして、真の意味での3回戦方式が最後まで貫かれたのは、1900年が初となったのである。

1899年は、同年中に2つの異なるチームがカップ挑戦チームを退けるといった珍事も見られた。すなわちこの年は、モントリオール・ヴィクトリアズがウィニペグ・ヴィクトリアズを、また新リーグ覇者のモントリオール・シャムロックス (Montreal Shamrocks) がクイーンズ大学を、それぞれ挑戦試合で退けカップを防衛したのである。

1902年は、カナダアマチュアホッケーリーグ (CAHL、Canadian Amateur Hockey League、この前身はAHA) 所属チームが初めて挑戦試合に出場しない年となった。

また、1903年の挑戦試合では、初の再試合が行われた。同年1月31日のシリーズ第2試合、ウィニペグ・ヴィクトリーズ対モントリオールAAA戦の延長戦開始27分、2対2の同点の時点で真夜中12時となった。翌2月1日は、安息日 (sabbath) であったため、翌々日の2月2日に再試合が行われ、ウィニペグは4対2で勝ち、シリーズ1勝1敗のタイに持ち込んだ。

この1ヵ月後、CAHLにおいてモントリオールAAAは第3位となり、同率で第1位となったモントリオール・ビクトリアズとオタワ・シルバーセブンとの間で、2試合の合計ゴール数をもってカップの帰趨が決定されることとなった。このシリーズで勝利したシルバーセブンは、その2日後にラットポーテージ・シスルズ (Rat Portage Thistles) からの挑戦試合を受けることとなったが、シルバーセブンはこのシリーズも容易に勝利を収めた。

1904年1月30日に行われたオタワ・シルバーセブン対モントリオール・ビクトリアズのリーグ戦は遅い時間に始まったが、両チームは、深夜0時にゲームを終了することで合意し、この時点でシルバーセブンは4対1でリードしていた。ところがCAHL はこの試合を中断するのではなく再試合を行うべきであるとの判断を行ったため、シルバーセブンのリーグからの脱退が不可避となった。

CAHLは、シルバーセブンのリーグ脱退に伴ってスタンレー・カップの保有権はリーグに所属するケベック州のチームにあると考えていたが、カップ管理者はこれとは異なる判断を行った。他方、シルバーセブンは暫くどこのリーグにも属さず活動を行ったが、1905年にCAHLのライバルリーグである連邦アマチュアホッケーリーグ (FAHL、Federal Amateur Hockey League) に参加することとなった。

この1905年、ドーソンシティ・ナゲッツ (Dawson City Nuggets) の出場したカップ挑戦試合は、史上屈指の伝説的なシリーズとなった。このチームは、ユーコンから連邦の首都オタワまで遥か4,000マイルの長旅を経て、到着後その翌日に試合を行ったのである(結果は、ナゲッツの敗北)。また、シリーズ第2戦では、23対2( Frank McGee の14ゴールを含む。)のカップ史上最多(2005年現在)得点差がついた一方的な結果に終わった[11]

1906年には、東部カナダアマチュアホッケー協会 (ECAHA、Eastern Canada Amateur Hockey Association) が創立され、同年12月には、スタンレー・カップ初となるプロ選手の出場(結果は勝利)があった。1910年までは、カップ管理者は、スタンレー・カップに出場資格がある選手は各リーグのレギュラーシーズンにおいてプレーした選手のみであるとの見解を示していたが、挑戦試合においては通常、チャンピオンチーム、挑戦チームともにプロ選手を助っ人として雇い入れていた。


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