スタッフ
Stuff
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州
ジャンルフュージョン、ジャズ・ファンク
活動期間1970年代 - 1980年代
レーベルワーナー・ブラザース・レコード
メンバーゴードン・エドワーズ (b)
コーネル・デュプリー(g)
エリック・ゲイル (g)
リチャード・ティー (key)
スティーヴ・ガッド (ds)
クリストファー・パーカー(ds)
スタッフ(Stuff)は、1970年代後半から1980年代前半にかけて活動した、アメリカのフュージョン・バンドである。 メンバーは、リーダーのゴードン・エドワーズ(ベース)、コーネル・デュプリー(ギター)、エリック・ゲイル(ギター)、リチャード・ティー(キーボード)、スティーヴ・ガッド(ドラム)、クリストファー・パーカー(ドラム)の6人がオリジナル・メンバーで、ドラマーとギタリストが2人ずついるのが特色だった。 メンバーは皆ニューヨークを中心に活動していた有能なスタジオ・ミュージシャンであり、1970年代後半のフュージョン・ブームに乗った。コーネル・デュプリーはすでにスタッフ結成以前からかなりの実績があった。例えばブルック・ベントンの「雨のジョージア」[1](1970年)でのソウルフルなギター演奏や、キング・カーティスの「ライブ・アット・フィルモア・ウエスト」(1971年)、ダニー・ハサウェイの「ライブ」(1972年)への参加で高い評価を得ていた。 ジャズ、ソウル、R&Bといったジャンルを混合したものであり、ザ・クルセイダーズやスパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、リー・リトナー、ラリー・カールトンらと同様、フュージョンという限定されたジャンルの中で評価された。演奏は、フュージョン・バンドらしい優れた技巧を使用したものである。 1960年代半ば、ゴードン・エドワーズが結成したセッション・バンド「エンサイクロペディア・オブ・ソウル」が母体となる。1970年代に入ると彼らはニューヨークのクラブ、ミケールズ(Mikell's)で演奏を繰り広げ、人気バンドとなる。またコーネル・デュプリーとリチャード・ティーはサックス奏者キング・カーティスのバンド、ザ・キングピンズとして活動していた。このクラブに出入りしていた他のメンバーもバンドに参加するなど、メンバーは流動的だったが、1970年代半ばにはメンバーは固定され始めていた。ドラムのクリストファー・パーカーは1970年代前半から「エンサイクロペディア・オブ・ソウル」に参加していたが、彼がブレッカー・ブラザーズのツアーで、ゴードンとのライブに参加できなくなり、クリスがスティーヴ・ガッドを紹介。クリスの身が空いてからは、コーネル・デュプリーの案[2]でツイン・ドラムの編成となった。 1975年の末頃か翌1976年初頭、ジョー・コッカーのアルバム制作にクリストファー・パーカーを除くメンバーが起用されており、アルバム『スティングレイ』にはほぼ方向性を定めたスタッフの演奏を聴くことができる。8月、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演。この様子は、日本のラジオでも放送され話題を呼ぶ。なお、このライブは2007年にCD化とDVD化された。同年、トミー・リピューマとハーブ・ロヴェルをプロデューサーに迎え、ワーナー・ブラザース・レコードよりレコード・デビューする。時代はフュージョン・ブームの真っ只中であり、ファースト・アルバム『スタッフ!!』は先に放送されたライブの評判もあいまって、日本国内ではそれなりのヒットとなった。しかしアメリカ本国やヨーロッパでは、不発に終わってしまった。 1977年にヴァン・マッコイとチャーリー・チップス、スタッフの共同プロデュースでアルバム『モア・スタッフ』を、1978年にスティーヴ・クロッパーのプロデュースで『スタッフ・イット』をリリースした。 1978年に行われた、東京郵便貯金ホールでのライブは、『ライヴ・スタッフ』としてアルバム化された。なお、クリス・パーカーは急病のため、参加できなかった。このアルバムは、ウーンデッド・バード・レコードがワーナーから権利を買い取り、2008年に再発される。 1980年には、彼らの拠点であるミケールズでのライブ・アルバム『イン・ニューヨーク』が発売される。 その後は、各メンバーがソロ活動などで多忙になったため、空中分解する。 その後、メンバーのスティーヴ・ガッドを中心にコーネル・デュプリー、リチャード・ティーらにより、ガッド・ギャング(Gadd Gang)が結成された。 1993年にリチャード・ティーが前立腺癌のため死去。ゴードンは追悼の意も込めて[2]、バンドを再結成、ジェイムス・アレン・スミス
概要
来歴
解散後