スザンヌ・ランガー
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Susanne Langer生誕1895年12月20日
アメリカ合衆国 ニューヨーク マンハッタン
死没1985年7月17日(1985-07-17)(89歳)
アメリカ合衆国 コネチカット州 オールド・ライム
時代現代哲学
地域西洋哲学
出身校ラドクリフ・カレッジ
(学士1920年、Ph.D.1926年)
配偶者ウィリアム・ランガー
(m. 1921; div. 1942)
学派プロセス哲学アメリカ記号論(セミオティクス)
研究分野言語哲学美学音楽美学音楽の哲学心の哲学
主な概念芸術記号論(芸術意味論)[1]
影響を受けた人物

エルンスト・カッシーラーアルトゥル・ショーペンハウアー[2]アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインチャールズ・サンダース・パースチャールズ・W・モリス

影響を与えた人物

ハワード・ガードナークリフォード・ギアツ[3]ブラジルのネオ・コンクリート・ムーブメント[4] バーナード・ロナガン[5]

博士課程指導教員アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
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スザンヌ・キャタリーナ・ランガー (Susanne Katherina Langer, S.K.ランガー, 旧姓ノート[6] (Knauth), 1895年12月20日 - 1985年7月17日[7][8]) は、アメリカ合衆国哲学者論理学者美学者20世紀中期アメリカ美学の中心人物[9]。同時代のカッシーラーホワイトヘッドウィトゲンシュタインらの影響を受けつつ、言語シンボル象徴)・芸術感情について独自の思想を構築した。著書に『シンボルの哲学』『感情と形式』など[10]
生涯

1895年、ドイツからマンハッタンに移住したノート夫妻のもとに生まれる[6]。そのようなルーツから、英語だけでなくドイツ語にも堪能であり、10代の間にカントを原語で読んでいた[6]。また、弁護士音楽家の父親の影響で、幼少からチェロを演奏し音楽に親しんでいた[8]

1916年、ラドクリフ・カレッジハーバード大学が女子の入学を認めていなかった時代の提携女子大学)に入学し、論理学者ヘンリー・シェファー(英語版)(シェファーの棒で知られる)のもとで当時最新の形式論理学記号論理学を専攻する[6]

1920年、同校大学院に進学[8]。1921年、ハーバードの歴史学の院生だったウィリアム・ランガー(英語版)と結婚する[11]。同年、ウィリアムのウィーン大学留学に同伴してウィーンに赴く[11]。同地では、ゲシュタルト心理学者言語哲学者のカール・ビューラー(英語版)の講義を聴講するなどし、ドイツ哲学を積極的に吸収する[11]。帰国後、その成果を活かしてハルトマンについての修士論文を書く[11]

1924年、博士課程に進学すると、同年にハーバードに赴任したばかりのホワイトヘッドのもとで『プリンキピア・マテマティカ』にかんする博士論文を執筆する[12]。しかし当時のホワイトヘッドはプロセス哲学に関心を移している最中だったため、論文指導は無きに等しかったという[12]。とはいえ不仲だったというわけではなく、スザンヌが著書を出した際は献辞と賛辞を寄せ合っており、ホワイトヘッドから思想的影響を受けたことも自認している[12]

1926年、Ph.D.を取得、翌1927年から母校ラドクリフ・カレッジで教員を務める[8]

1942年、同校から異動すると同時に、主著『シンボルの哲学』を刊行、ウィリアムと離婚する[8]。以後1962年までの間、デラウェア大学コロンビア大学コネチカット・カレッジを歴任、その他多くの大学で講義する[13]。1960年にはアメリカ芸術科学アカデミーフェローに選出される[14]

1985年、コネチカットの自宅にて逝去、享年89歳[8]
思想

思想変遷として、初期は論理哲学を、中期(1942年『シンボルの哲学』以降)はシンボル・芸術・科学・文化を、後期(1967年『Mind』三部作以降)は感情・心を主に論じた[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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