← 1238年 - 1583年 →
13世紀のスコータイ王朝(青紫)
公用語タイ語(スコータイ方言)
宗教上座部仏教
首都スコータイ(1238 - 1463年)
ピッサヌローク(1463 - 1583年)
王
1249 - 1257年シーインタラーティット
1279 - 1299年ラームカムヘーン
1463 - 1488年ボーロマトライローカナート
1569 - 1583年ナレースワン
変遷
ラヴォ王国から独立1238
ラームカムヘーン王による領土拡大1279 - 1299年
アユタヤ王国の朝貢国になる1378年
アユタヤ王国と同君連合を結ぶ1448年
タウングー王朝の属国になる1563年
アユタヤ王国に併合1583年
現在 タイ王国
ラオス
ミャンマー
スコータイ王朝(スコータイおうちょう、タイ語: ราชอาณาจักรสุโขทัย、1240年頃[1][2] - 1438年)は、現在のタイに存在した王朝。タイ族最初の王朝といわれる。 雲南から南下してきたタイ族は、13世紀頃までは強力なアンコール王朝の支配力の元にあった。ところがアンコール王朝のジャヤーヴァルマン7世が崩御すると、タイ族が進出していた地域におけるアンコール王朝の支配力が次第に弱まり始めた。ラート(現在のペッチャブーン郡)の小タイ族領主のポークン・パームアンと、バーンヤーン(現在のナコーンタイ郡
歴史
スコータイ王朝の領域は、現在のタイ北部の南半分を中心としていた。主なムアンは、王都のスコータイのほか、シーサッチャナーライ、ソーンクウェー(ピッサヌローク)、ナコーンチュム(カムペーンペット)、プラバーン(ナコーンサワン)、ウッタラディット、それにチャイナートなどであった。また、中部のスパンブリー、ラーチャブリー、ペッチャブリーや、南部のナコーンシータンマラートなどまで、勢力を拡大していった。スコータイ王朝の統治は、父である王が子である領民を保護・指導するという父権主義の形態であった[4]。
スコータイ王朝は3代目大王ラームカムヘーン(在位1279年頃 - 1298年[2])の代に黄金期を迎えた。ラームカムヘーンは最初のタイ文字を定め[5]、中国との貿易も行われた。パヤオ王国のガムムアン(ドイツ語版)王、ラーンナータイ王朝のマンラーイ王と同盟を結んだ。
しかし4代目王ルータイ(在位1298 - 1323年)の代までに各地で離反が相次ぎ小国になった。後に王に就いたリタイ王(在位1347 - 1368年)は仏法の研究を積極的に行い、1345年には「三界経(ドイツ語版)」(三界論)を著して、民衆の仏教理解を深めさせた。同時にタイ史上初めての一時的な出家を果たした。これはすでに没落の兆候を示していたスコータイ王朝をリタイが仏法を以て繋ぎ止めようとしたことにあるとされる。