スコルディスキ(Scordisci、ギリシア語: Σκορδ?σκοι)はケルト系古代民族の1つで、ローマ属州のパンノニアからモエシアにかけて、現在のセルビアのサヴァ川がドナウ川に合流する地点[1]やクロアチアのドラーヴァ川がドナウ川と合流する地点[2]などに居住していた。特に紀元前3世期初めから紀元前後まで歴史に名を残している。最盛期には、現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、ボスニア・ヘルツェゴビナにまたがる領域を版図としていた。スコルディスキという名称はイリュリアとパイオニア王国の間(現在のコソボとマケドニアの国境あたり)にあった Scordus と呼ばれた山 (en) と関係する可能性がある[3]。 スコルディスキの民族系統は今も歴史学者の議論の1つとなっている。ケルト人[4][5][6]、トラキア人[7]、イリュリア人[8]、あるいはこれら民族とケルト人の混血[9]といった説がある。イリュリア、トラキア、ダキアの歴史上で何度かスコルディスキの名が登場しており、時には「大スコルディスキ」と「小スコルディスキ」のような複数グループに分裂していることもあった[10]。 Andras Mocsy はスコルディスキの民族的性格を明らかにし、本来はケルト人ではないが「ケルト的政治体制」を採用していたと示唆している[11]。紀元前278年以降、バルカン半島へのケルト人進出で生き残った少数のケルト人が上述した地域の支配階級として定住し、民族が形成された[12] 。数に優る原住民に比較的早期に吸収されたと見られるが、ケルト的な民族名はイリュリア語化した Scordistae となって残り[13]、紀元前2世紀によく使われている[14]。固有名詞学的研究によれば、モラヴァ川の東に定住したスコルディスキはトラキア化している[15]。 現地生産されたラ・テーヌ文化に属する工芸品が出土しており、特にパンノニアやモエシア北部に多く、ケルト人の定住と文化的交流の濃さを示している。しかし、サヴァ川より南からはそのような出土品はあまり見つかっていない[16]。 ギリシアからは排斥されたにもかかわらず、バルカンにおけるケルト人は根絶されたわけではなかった。紀元前278年に形成された後、しばらくの間はスコルディスキについてほとんど何も記録されていない。アンティゴノス朝マケドニアの全盛期のころ、スコルディスキはパンノニアを中心とした地域の支配を確立することに注力していた。パンノニアの諸民族を支配下におさめ、年貢を納めさせるようになり、バルカン中央部で最も強大な民族となってシンギドゥヌム
出自
歴史紀元前50年ごろのバルカンにおけるケルト系民族の分布