スコピエ
[Wikipedia|▼Menu]

スコピエ

Скоп?е
Skopje


市旗市章

位置

スコピエの位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}スコピエスコピエ (北マケドニア)北マケドニアの地図を表示スコピエスコピエ (バルカン半島)バルカン半島の地図を表示スコピエスコピエ (地中海)地中海の地図を表示スコピエスコピエ (ヨーロッパ)ヨーロッパの地図を表示


座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度0分18.72秒 東経21度26分30.12秒 / 北緯42.0052000度 東経21.4417000度 / 42.0052000; 21.4417000
行政
北マケドニア
 基礎自治体スコピエ都市圏
 構成自治体ツェンタル
ガジ・ババ
アエロドロム
チャイル
キセラ・ヴォダ
ブテル
シュト・オリザリ
カルポシュ
ジョルチェ・ペトロフ
サライ
 市スコピエ
市長ペトレ・シレゴフ
SDSM
地理
面積 
  市域1,854 km2
  市街地571.46 km2
標高240 m
人口
人口(2013年現在)
  市域497,900人
    人口密度  268.5人/km2
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号1000
市外局番02
ナンバープレートSK
公式ウェブサイト : ⇒http://www.skopje.gov.mk/

スコピエ(マケドニア語: Скоп?е/Skopje [?sk?pj?] ( 音声ファイル))は、北マケドニア共和国の首都。
概要

北マケドニアの全人口の3分の1が居住する最大の都市であり、同国の政治、文化、経済、学術の中心都市である。古代ローマ期にはスクウピ (en) の名で知られていた。スコピエ周辺は紀元前4000年頃以来人が居住し、新石器時代の集落跡が現代のスコピエ中心部を見下ろすケール城塞(スコピエ城塞(英語版))周辺で発見されている。1世紀直前、集落はローマ人によって押さえられ軍の野営地となった[1][2]

ローマ帝国395年に東西に分かれるとスクウピはコンスタンティノープルビザンティンの支配下に入った。中世初期の多くの期間ビザンティンと第一次ブルガリア帝国の間でその覇権が争われ、972年から992年にかけてスコピエには第一次ブルガリア帝国の首都が置かれた。1282年からは町はセルビアの支配下に入り、1346年にセルビア帝国の首都が置かれている。1392年、スコピエの町はオスマン帝国に征服されオスマンの人々は町をユスキュプ(Uskup)と呼んでいた。以来、約500年以上にわたりオスマンの支配下にありユスキュプ・パシャサンジャクの首都で後にコソボ州 (en) の首都であった。この期間に現在でも市内に残る著名なオリエンタル様式の建築物の多くが造られている。

1912年に町はバルカン戦争の期間セルビア王国によって征服され、第一次世界大戦後、新たに形成された後のユーゴスラビア王国となるスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部となる。第二次世界大戦時には町は枢軸国の一部であったブルガリア王国の軍によって占領された。1944年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国であるマケドニア社会主義共和国の首都となる。スコピエは第二次世界大戦後に急速に開発されるが、1963年に発生したスコピエ地震によりその発展が一時滞る。1991年にはユーゴスラビアから独立したマケドニア共和国(現・北マケドニア共和国)の首都となっている。

スコピエはヴァルダル川の上流部にあり、ベオグラードとアテネのバルカン半島の南北を結ぶ回廊に位置しほぼ中間にあたる。金属加工や化学、木材、織物、皮革、印刷産業などの中心でスコピエの産業発展は、貿易、物流、金融部門だけでなく、文化やスポーツの分野においても重点を置かれた開発が伴っている。2002年の公式な国勢調査によればスコピエの人口は506,926人で、2つの非公式な直近の調査によれば668,518人[3] または467,257人である[4]
呼称

スコピエの呼称は古代のラテン語のスクウピ(Scupi)からもたらされたことが証明されており、この名称は古代のギリシャ・ローマの国境の要塞の町の名で[5]トラキア人、パエオニア人 (en) が起源となっている。[6][7]現代ではオスマン帝国統治時代のオスマン語の名称であるユスキュプUskup (オスマン語: ?????‎) やセルビア王国時代のセルビア語での名称 Skoplje (Скоп?е)、1912年から1941年にかけてのブルガリア王国の名称であったSkopie (Скопие)などが知られている。1945年から公式にマケドニア語のSkopje (Скоп?е)が使われるようになり、マケドニア語の地元発音を表すマケドニアキリル文字 (en) で綴られている。アルバニア語ではシュクープ(Shkup)やシュクーピ(Shkupi)と呼ばれている。
地理スコピエの衛星写真

スコピエはバルカン半島中央部マケドニア北部のスコピエ地方に位置し、ベオグラードとアテネのほぼ中間に位置している。ヴァルダル川の源流はゴスティヴァル近くに源を発し、スコピエを流れマケドニア南部を流れギリシャとの国境に達し最終的にはエーゲ海に流れ込む。ヴァルダル渓谷はほとんどが丘陵や山地で構成されている。スコピエ市街は平均東西が23km、南北が9kmの範囲である。平均海抜は225mで、スコピエ市域は1,854 km2を占める。地図

トレスカ川

マトカ渓谷

ヴァルダル川

コズヤク渓谷

気候

スコピエの気候はケッペンの気候区分温暖湿潤気候(Cfa)で、湿潤大陸性気候との境界に近い。降水量は北西部のプロクリェティイェ山脈の雨蔭になるため比較的少なく、同緯度のアドリア海沿岸で得られるうちの4分の1だけである。夏は蒸し暑く、冬は寒く湿気がありしばしば降雪が見られる。夏の気温は通常31°Cを超え、時には40°Cを超えることもある。春や秋は15-24℃の間で経過する。冬の気温はおおよそ6°Cであるが0°Cを下回ることもあり、時折-10°Cを下回ることもある。降水は年間を通して見られ、10月から12月と4月から6月に多くなる。

スコピエの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)18.7
(65.7)24.2
(75.6)28.8
(83.8)32.4
(90.3)35.2
(95.4)41.1
(106)42.8
(109)43.2
(109.8)37.0
(98.6)33.9
(93)28.2
(82.8)22.1
(71.8)43.2
(109.8)
平均最高気温 °C (°F)4.5
(40.1)8.3
(46.9)14.0


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:157 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef