スコットランド法
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スコットランド法(スコットランドほう:: Scots law)は、スコットランドの法体系である。大陸法英米法の要素が混合した混合的法体系であるとされており、その起源を辿ると数多くの異なる歴史的起源に行き着く[1][2]イングランド法および北アイルランド法とともに、連合王国の3つの法体系のうちの1つである[3]。スコットランド法は、一定の要素を他の2つの法体系と共有するが、他方で独自の起源と制度も有している。

11世紀より前の初期のスコットランド法を構成していたのは、当時この国に居住していた様々な文化的グループの異なる法的伝統の混合であった。すなわち、ピクト人ゲール人ブリトン人アングロ・サクソン人およびノース人である。11世紀以降の封建制の導入と、スコットランド王国の拡大が、スコットランド法の現代的な起源をなしたが、これは徐々に他の(特にヨーロッパ大陸の)法的伝統の影響を受けた。スコットランド法へのローマ法の間接的な影響はあったものの、ローマ法の直接的な影響は15世紀頃まではごくわずかであった。その後、ローマ法はしばしば法廷の弁論において、紛争を解決するための現地スコットランドのルールが欠けている場合に、適応させた形で採用されるようになった。ローマ法は、こうして部分的にスコットランド法に受容された。

スコットランド法は、4つの法源を認めている。すなわち、制定法判例、特定の学術書および慣習である。スコットランドに影響する制定法は、スコットランド議会連合王国議会欧州議会および欧州連合理事会によって議決される。1707年より前のスコットランド議会(英語版)において制定された制定法の一部は今もなお有効である。

1707年イングランドとの連合法以降、スコットランドはイングランドおよびウェールズと立法府を共通としていた。スコットランドは境界以南とは依然として基本的に異なる法体系であったが、この連合により、イングランドの影響がスコットランド法に及ぶようになった。近年においては、スコットランド法に影響を及ぼしてきたものとして、EU法欧州連合基本条約に基づく)、欧州人権条約欧州評議会の加盟国により締結)の要請、およびスコットランド議会がある。スコットランド議会は、ウェストミンスターの議会に留保されていないあらゆる分野について制定法を議決することができ、その詳細は1998年スコットランド法(en:Scotland Act 1998)において規定されている[4][5]
法域としてのスコットランド

連合王国という国は、3つの法域から構成されている。すなわち、(a) イングランドおよびウェールズ、(b)スコットランドならびに(c)北アイルランドである[3]。スコットランド法、イングランド法および北アイルランド法(英語版)の間で大きく違うのは、例えば財産法刑法信託法[6]相続法証拠法および親族法であるが、他方で大きく類似しているのは国益に関する分野で、例えば、商事法消費者の権利[7]租税労働法および衛生安全規制がある[8]

これらの法域間のより重要な実務的な違いを挙げると、行為能力(legal capacity)が与えられる年齢(スコットランドでは16歳、イングランドでは18歳)[9][10]、スコットランドにおける刑事裁判は15名の陪審員を要し(イングランドでは12名)、常に単純多数決により決せられること[11]、被告人は刑事裁判において裁判官陪審かを選ぶ権利を有せず[11]、刑事裁判における裁判官および陪審員は「証明されず(en:not proven)」という第3の評決を下すことができること[12][13]、そして衡平法がスコットランド法の一部門としては存在しないこと[14]がある。
歴史詳細は「en:History of Scots law」を参照

スコットランド法の初期の始まりを辿ると、スコットランドの初期の諸文化から連合王国の3つの法域のうちの1つとしての現代的役割に至るまでの数多くの異なる文化制度に行き着く。スコットランド法の様々な歴史的起源には、慣習、封建法、カノン法、ローマ法およびイングランド法があり、これらが混合的な法体系を創り上げた。

11世紀より前のスコットランド法の本質は、大いに推測をはらむものであるが、おそらくは、当時この地に居住していた異なる諸文化を代表する異なる法的諸伝統の混合であった。例えば、ケルト人ウェールズ人アイルランド人ノース人およびアングロ・サクソン人の慣習である[15]。17世紀になっても、ハイランドおよび島嶼部(en:Highlands and Islands)の婚姻法は、ケルト人の慣習をなお反映したものでカトリックの宗教原則に違反したものであったことを示す証拠もある[16]スコットランド王国の成立および同王国による周辺諸文化の征服(カラムの戦い(en:Battle of Carham)により完成。)によって、現代のスコットランド本土の境界がおおよそ形成された[17]アウター・ヘブリディーズが1263年のラーグズの戦い(en:Battle of Largsによって加えられ、北方諸島(en:Northern Isles)が1469年に取得され、スコットランドの今日の法域が完成した[18]

11世紀以降、封建制が徐々にスコットランドに導入され、封建的土地保有(en:feudal land tenure)が南部および東部の大部分に対して形成され、やがて北方にも広がった[19][20]。封建制がスコットランドにおいて発展し始めるにつれ、初期の裁判所制度が発展し始めた。州裁判所(en:Sheriff Court)の初期の形態などである。

ロバート・ブルースの下で、スコットランド議会(英語版)の重要性が増し、彼は議会をより頻繁に招集するようになり、また、議会の構成も、自由都市(en:burgh)やより小規模な土地所有者の代表者をも含むようになった[21]。1339年には、一般評議会(General Council)が、王は「彼の臣民が法による奉仕を受ける」ため翌3年間において少なくとも年に1度議会を開催せねばならない旨を定めた[21][22]。1318年には、スクーンにおいて議会は古い慣行を参考に法典を制定したが、そのほとんどは当時の事案により占められており、軍事的事項と戦争の遂行に集中していた[23]

14世紀以降は、現存する初期のスコットランドの法律文献の例を見ることができ、例えば、「Regiam Majestatem」(国王裁判所の手続について)や「Quoniam Attachiamenta」(バロン(baron)裁判所の手続について)がある[24]。これらの重要なテキストの両方が、その手本としたローマ法とユス・コムーネ(en:jus commune)から挿入されまたは発展させられた条項を有しており、これらの2つの起源がスコットランド法に及ぼした影響を実証している[25]

ジェームズ1世王の治世からジェームズ5世王までの間、法曹の発端が発展し始め、民刑事の司法行政は中央集権化された[26]。この期間、スコットランド議会は通常年次ベースで招集され、その議員はさらに定義された[27]。現在の民事上級裁判所(en:Court of Session)の進展は、その歴史を辿ると、15世紀から16世紀初期にかけて、司法行政のみを取り扱う王会(King’s Council)から進展した王の特別な顧問団が設置されたことに行き着く。1528年には、この機関に選任されなかった王会議員(Lords of Council)はその傍聴席から排除されることとなり、さらにこの機関こそが4年後の1532年に最高法院(College of Justice)となったのである[28]

1707年連合法(en:Act of Union 1707)によりスコットランド王国イングランド王国が統合されてグレート・ブリテンが形成された。同法第19条により、最高法院(College of Justice)、民事上級裁判所(Court of Session)および刑事上級裁判所(en:Court of Justiciary)が、スコットランドにおいて引き続き権限を有することが確認された[29]。しかしながら、第3条により、スコットランド議会はイングランド議会(en:Parliament of England)に統合されてグレート・ブリテン議会(en:Parliament of Great Britain)を形成することとなり、これはロンドンウェストミンスター宮殿に置かれた。

グレート・ブリテン議会は、現在では、公権、政策および民政に関する法改正については制限を受けないが、私権に関しては、対象事項がスコットランド内において明らかに有用となる改正のほかは認められない。スコットランド啓蒙運動(en:Scottish Enlightenment)の中で、大学が法規を教授し、スコットランド法は再活性化された。ロンドンへの立法権の移転および貴族院(現在は連合王国最高裁判所)への上訴制度の導入により、イングランドによるさらなる影響がもたらされた。議会制定法によって、イングランドとスコットランドの双方に適用される統一された制定法が作られるようになり、特に実利的な理由から適合性が必要とみられる場合が特にそうであった(1893年物品売買法(en:Sale of Goods Act 1893)など)。イングランドの裁判官によって上訴に対する判決がなされることで、域外の制度に対する上訴について不安が持たれたため、19世紀後期にはスコットランド常任上訴貴族(en:Scottish Lords of Appeal in Ordinary)の選任が認められた。同時に、一連の事件によって、刑事上級裁判所(High Court of Justiciary)から貴族院への上訴はなされないことが明らかになった。今日においては、連合王国最高裁判所は、通常、少なくとも2名のスコットランドの裁判官を擁し、スコットランドからの上訴についてスコットランドでの経験を生かすことを確保している[30]

スコットランド法は、20世紀においても変化し発展し続けてきており、最も重要な変化は 権限委譲とスコットランド議会(Scottish Parliament)の設置によるものである。
影響源

初期のスコットランド法を編集したRegiam Majestatemは、グランヴィルによるイングランド法の論文に重く基礎を置いていたが、さらに大陸法や封建法、カノン法、慣習法および現地スコットランドの制定法の要素をも含んでいた。ローマ法によるスコットランド法に対する一定の間接的な影響はあり、これは教会裁判所で用いられた大陸法およびカノン法を通じたものであったが、15世紀半ばころまではローマ法の直接的な影響はごくわずかであった[31]。その後、ローマ法はしばしば法廷の弁論において、紛争を解決するための現地スコットランドのルールが欠けている場合に、適応させた形で採用されるようになった。ローマ法は、こうして部分的にスコットランド法に受容された。

1707年連合法(en:Acts of Union 1707)以降、スコットランドは連合王国の他の地域と立法府を共通とするようになった。スコットランドはイングランドおよびウェールズとは基本的に異なる法体系を維持したが、この連合により、イングランドの影響がスコットランド法に及ぶようになった。近年においては、スコットランド法に影響を及ぼしてきたものとして、EU法欧州連合基本条約に基づく)、欧州人権条約欧州評議会の加盟国により締結)の要請、およびスコットランド議会(Scottish Parliament)の設置がある。スコットランド議会は、その立法権限が及ぶ分野について制定法を議決することができ、その詳細は1998年スコットランド法(en:Scotland Act 1998)において規定されている[4][5]
法源
制定法

連合王国議会はスコットランドのためにあらゆる事項について制定法を議決することができるが、スウル慣例(en:Sewel convention)により、委譲事項についてはスコットランド議会(Scottish Parliament)の同意なくこれを行うことはない[32][33]。1998年人権法(en:Human Rights Act 1998)、1998年スコットランド法(en:Scotland Act 1998)および1972年欧州共同体法(en:European Communities Act 1972)はスコットランド法において特別の地位を有する[34]。現代の制定法はそれがスコットランドに適用がある旨を明示し、その法体系の独特の要素を考慮した特別な文言を規定することがある。制定法は、法律となる前に女王による裁可(en:Royal Assent)を受けねばならないが、これは現在では形式的な手続で自動的になされる[35]連合王国議会による立法は、裁判所による審査には服さない。議会が最高の法的権限を有するためである。しかしながら、実務上、議会は、1998年人権法(en:Human Rights Act 1998)またはEU法に反する立法は、技術的には可能ではあるものの、行おうとはしない[36]。議会が主権を放棄した程度については、連合王国欧州連合の関係がどうあるべきかに一般的に関連する議論における1つの論点である[37][38]


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